五社稲荷社を出て西に進み、国道1号を渡ると風祭りで知られる菟足神社の境内に入る。
菟足神社は、穂(大化の改新以前における三河地域の行政区分で、今の東三河地方に相当)の国造である菟上足尼命を祭神として祀っている。国造とは、大化の改新(645年)以前に、当時日本を治めていた大和朝廷が、地方の有力豪族に任じた官職であり、地方の統治権などが認められていた。
『先代旧事本紀』(平安時代初期の成立といわれる)という書物によれば、菟上足尼命は生江臣の祖にあたる葛城襲津彦の4代目の孫にあたり、雄略天皇の時代(5世紀後半)に穂の国造に任じられたという。菟足神社は縄文時代の貝塚があった場所にあり、境内西側の地面には貝殻の破片が散乱している。
三河の古代史上重要な地域
菟足神社の周辺は、古代の豊川の渡船場である「志香須賀の渡し」が存在した場所と考えられ、また江戸時代には東海道が神社のすぐ西側を通るなど、古くから交通の要衝の地である。また神社の北東約400mに位置する坂地遺跡の発掘調査では、古代の建物跡などが検出され、坂地遺跡のすぐ東には東三河地方で最古の古代寺院遺跡である医王寺廃寺があり、菟足神社が穂の国造の菟上足尼命を祭神にしていることをあわせて考えれば、この地域が三河の古代史を紐解く上で重要な場所であることが分かる。
中世後期の支配状況をうかがう良好な史料
菟足神社には多くの史料が残されているが、戦国時代を中心とした中世後半における神社周辺地域の支配状況を知ることができる史料が多いのも特徴である。
社殿造営の棟札には、当時 のこの地域の支配者の名が記されており、今川義元禁制・今川氏真禁制・家康の制札·家康制札の写札・松平甚太郎の制札(すべて市指定有形文化財)なども、当地域の戦国時代の状況を知る上で有効な史料である。
大般若経【国指定重要文化財】(見学できません)
巻子装(巻物)の585巻からなり、のちに補填された9巻の版本と1巻の写本も含む。奥書(経の巻末に記された、筆者・書写年月日・来歴のこと)によれば、藤原宗成の立願によって安元2(1176)年3月から治承3(1179)年8月にわたって、研意智によって書写されたものであることが分かる。研意智は、600巻の多くを摂津国(兵庫県)河辺郡南條冨松庄で書き、最終的には肥後国(熊本県)益城郡石津村六ヶ庄で書写作業を終了したようである。この経典が菟足神社に奉納された時期はよく分らないが、2つの巻の修覆奥書に「貞治6(1367)年願主沙彌朝玄」とあり、応安3(1370)年に菟足神社に梵鐘を奉納した檀那朝阿弥陀と同一人物と考えられ、既にこの時期には奉納されていた可能性もある。古代末期の経典として保存状態が比較的良好であり、写経作業の状況を知り得る貴重な資料である。
梵鐘【県指定有形文化財】(見学できません)
菟足神社南方約100mの水田から発掘されたと伝えられるものであるが、その時期については記録がないため不明である。高さ100㎝、口径60㎝で、「参河国賓飯郡渡津郷菟足大明神の洪鐘、右志は、天長地久、御願円満、国士安穏、諸人快楽のため、鋳奉るところなり」という内容の銘文と「檀那朝阿弥陀仏」「勧進聖見阿弥陀仏」「大工藤原助久」という3人の名前、「応安三年庚戌十一月□日」の年月が刻まれている。これにより、この鋼鐘が製作された応安3(1370)年に、菟足神社が「菟足大明神」とよばれていたことや、神社のある地域が当時「宝飯郡渡津郷」に含まれたことなどが分かる。
祭礼古面【県指定有形民俗文化財】(見学できません)
古くから神社に所蔵されている古面であるが、作者や使途などについて伝えられていることもなく、古面に関する古文書も残されていない。古面は九面あり、このうち県指定のものは獅子面が2、男面が2、鬼面が1の計5面である。5面とも比較的小型で、一番大きい面が17.3㎝×7.6㎝である。他の4面は、市指定文化財で、2面に元禄11年の年号、3面に寄進者の名(川出氏、伴氏)が記されている。
冤足神社の田祭り【県指定無形民俗文化財】
この祭りは、稲作の過程を模擬的に演じて稲の豊作を願う神事であり、毎年旧暦正月7日の酉の刻(午後6時)に行われる。
いつ始められたかは分からないが、装束の―つに「元禄14(1701)年正月調整」と記されており、この頃には行われていたと考えられる。はじめに拝殿内の蓬莱山飾りの前に宮司が着座し、祭りの終了まで作物の豊作を祈念する。次に、水田に見立てた太鼓を拝殿前に据え、その上に丸くて平らな田地餅をのせる。作大将・作男が祝詞をあげた後、作大将が神前に進んで神意をうかがい作男に伝えると、太鼓を突くなど稲作のしぐさと唱えごとをしながら田打ちが始まる。この時、長さ約70㎝の柳の枝を、鍬や鎌に見立てる。その後、田打ち、籾まき、苗代の草取り、馬の代かき、代ならし、苗うち、昼食持、田の草取り、稲刈り、稲数え、稲むらと続けて豊年を願う所作が行われる。
菟足神社西参道石鳥居【市指定有形文化財】
西参道の入口にある石鳥居は、元禄4(1691)年に吉田城主小笠原長重により奉納されたもので、以来旧東海道側からの参詣者を迎え入れてぎた。明神鳥居とよばれる形式で、花崗岩製である。市内に残る石鳥居として最古のものである。
風祭り
毎年4月の第2金・土・日曜日に行われるこの地方を代表する春祭りで、小坂井・平井・宿の各地区の氏子が参加し、様々な神事や芸能が行われる。『今昔物語』(平安時代後期)や『宇治拾遺物語』(鎌倉時代初期)にこの祭りのことが記載されており、古くから行われていることが知られる。初日の浜下神事と『今昔物語』などにある猪の生贄がしのばれる雀射初神事に始まり、2日目の士曜日には、打ち上げ煙火、手筒や大筒の煙火、建物煙火とよばれる仕掛け煙火が行われる。建物煙火は、三河地方で新城市八幡神社と幸田町荻稲荷神社の祭礼にしか残されていない珍しいものである。3日日の日曜日には、小坂井・宿の山車曳出し、平井地区の御鉾.笹踊り・笠鉾などの行列の参進、神輿渡御が行われる。
子だが橋伝説【むかしばなし】
むかし、菟足神社の祭りでは、祭りの日に小坂井と下五井の間の橋を最初に渡った女を、神の生贄にする風習がありました。ある年、贄奉仕の役にあたったのは平井村の男でしたが、この人はよそへ嫁に出した娘が祭りに来るのを楽しみにしていました。男は橋の近くに身をひそめ女の来るのを待ち構えていましたが、辺りがだんだん明るくなってきた時、一人の年若き女が歩いてきました。よく見ると、わが娘であることに気づいた男は、気も狂わんばかりに驚きましたが、村の風習を破ることはできないと、すがりついて見逃すよう乞う娘を、「子だが」しかたないと捕らえて縛り、箱に入れて神社に運びました。この年、村は風もなく豊年だったそうです。村の人たちはその親子を気のどくに思い、その橋を「子だが橋」とよぶようになったといいます。
(『小坂井のむかし話』より)
豊川の歴史散歩:❸小坂井の町から御津へ 平成25年10月発行より