持統上皇行在所伝承地をあとに、南西へ600m進んだ御馬集落の一角に、引馬神社がある。引馬神社は須佐之男命を祭神とし、正暦年中(990~995)に京都の八坂神社から勧請したと伝えられる。その後、観応元(1350)年に今川国範(範国ともいわれる)が社殿造営のために荘園の田を寄付し、享徳(1452~1455)年中には御馬城主の細川治部大輔政信が再興したという。かつては牛頭天王社と称されていたが、明治時代の神仏分離策により、この周辺が古代に引馬野とよばれたという伝承にちなんで、引馬神社と改称された。
算額【県指定有形民俗文化財】(見学できません)
算額とは和算家(和算とはわが国古来の数学で、明治期の西洋数学の輸入によりすたれた)が、自分の発見した数学の問題や解法を書いて神社などに奉納した額のことである。引馬神社には算額が3面あり、いずれも渡辺統虎が父富秋の33回忌追善のため、寛政9(1797)年に奉納したものである。渡辺家は御馬湊の廻船問屋で、富秋は郷土史研究や和算の著作などを多く残した人物である。算額の大きさは縦30㎝、横180㎝で、和算30題と解法が多色で描かれている。また額面には奉納の由来と、東三河・西遠江(静岡県)の当時著名であった和算家22名の住所・姓名・師弟関係なども墨書されるなど、貴重な資料である。
引馬神社・八幡社の祭礼笹踊り·七福神踊り【市指定無形民俗文化財】8月の第1土・日曜日に行われる祭礼では、引馬神社北酉600mにある八幡社へ神輿渡御が行われるが、その際に社前など決められた場所で笹踊りと七福神踊りが奉納される。笹踊りは、市女笠に錦織りの陣羽織と紫綸子の裁着袴を着用し胸に太鼓をくくりつけた3人が、囃子方の歌にあわせて踊りを舞う。七福神踊りは豊年・大漁を願って始められたもので、三谷祭(蒲郡市)の踊りを取り入れたものという。七福神の面と衣装を着た7人によるものであるが、弁財天の代わりにその使いである白狐が登場する。弁財天を除く七福神が、その白狐にたぶらかされながら、笛や太鼓にあわせてにぎやかに面白おかしく踊る。
万葉地名引馬野伝承地【市指定史跡】
持統上皇が三河の地を訪れた際に、随行した長忌寸奥麿が詠んだ歌「引馬野に匂ふ榛原入り乱り衣にほはせ旅のしるしに」が、『万葉集』巻1にある。この歌がどこで詠まれたものかについては、従来から御津町御馬付近(三河説)と浜松市曳馬町付近(遠州説)の2説ある。遠州説は賀茂真淵(遠州生れの江戸時代の国学者)らによるものであり、三河説は久松潜一ら国文学者や歌人の斎藤茂吉らによるが、どちらであるのか立証するのは難しい。引馬神社の境内には、斎藤茂吉の筆跡による「引馬野阿礼之崎」と刻む石碑があり、引馬野伝承にちなんで茂吉が詠んだ歌も刻まれている。
豊川の歴史散歩:❸小坂井の町から御津へ 平成25年10月発行より