佃の信号交差点を東に200m進むと、「八幡宮」と刻まれた石柱が見える。この角を北に入り200m進むと鳥居があり、ここを入ると八幡宮の境内に入る。
八幡宮は社伝によれば、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)から勧請され、国分寺の鎮護の神としても崇められたという。中世以降には、武家の崇敬を集めたことが牧野氏・今川氏の寄進状や安堵状(市指定有形文化財)などからうかがえ、江戸時代には幕府より150石の社領が与えられていた。境内はうっそうとした鎮守の森の景観をよく残しており、国指定重要文化財の本殿をはじめ多くの文化財が伝えられている
本殿 〖国指定重要文化財〗
本殿は三間社流造という構造で、屋根は檜皮葺である。文明9(1477)年の建立とされ、明治40(1907)年に特別保謹建造物の指定を受け、現在は国指定重要文化財である。
正面には三間の菱格子組の引戸があり、柱の上には出三斗とよばれる組物がある。桐間は、花鳥などを彫りこんだ形の良い蟇股や、七宝繋文の透し彫りで飾られている。内部は、朱塗りの分厚い板扉が内陣と外陣の境となり、欄間の彫刻と共に美しい空間をつくつている。内陣には白木造の厨子が安置されている。
側面にまわると、屋根の流れるような曲線、破風につけられた連続波形彫刻、蓮の花や日月を彫り込んだ蟇股、虹梁上の大瓶束など、優雅な作りを見ることができる。
この本殿は、素朴な鎌倉時代の建築から装飾の多い江戸時代建築へ移る中間の室町建築の良さを備えているといわれる。
武家とのかかわり
八幡神を祀る神社は全国各地にあり、源氏をはじめ全国の武家から武運の神として崇敬を集めた。
八幡宮には、牧野氏・今川氏からの安堵状や寄進状が残されており、戦国時代における武家との関わりをうかがうことができる。また近年、徳川林政史研究所(東京都豊島区)所蔵資料に、永正17(1520)年の八幡宮社殿造営の奉加帳(社殿の修理や建立に際して、寄付を受けた金品や寄付者の氏名を記した帳面)に関する資料があることが明らかとなり、これには現在の豊川市域だけでなく、西三河方の武家の名も記されており、当時八幡宮が広く武家の崇敬を受けていたことが分る。
木造狛犬 【県指定有形文化財】(見学できません)
高さ11.6㎝の木造狛犬である。台座の裏には「きしんす□□左あふミ八幡宮文明9年12月吉日」と墨書されており、文明9(1477) 年の作であることが分かる。また左とあるので、本来は左右一対あったと思われる。彫刻はすこぶる簡素で、小品ではあるが、その姿は堂々と力のある構えをしている。彩色はほとんど剥落している。口顎の張り、頭髪の強い巻き方、前足のふんばりや胸のそり、尾の先に至るまでの緊張感と簡潔さは、室町時代の作としてはなかなかの優品である。
木彫天宇受売命面 【県指定有形文化財】(見学できません)
面長22.7㎝、面幅13.8㎝ある。この古面は、当社の祭礼の神輿渡御で随身の者が使用したものである。小さな頭部に比べて誇張されたほおの突出や、小さなひとみに対して豊かな二重あごなど、なかなか好ましい表情をしている。彫刻は比較的なだらかで、その特徴から室町時代中期の作と考えられる。
矢場と祭礼
境内の東側にある矢場は、天保5(1834)年に建て替えられたもので、屋内には多くの金的中の額が奉納されている。その額の中には、貞享・元禄(1684~1704)などの年号が記されるものもあり、その頃から武技を競う風習があったようで、現在まで続いている。戦前には、境内の東の道路を騎馬が駆け抜ける行事があり、これに使用された和鞍13具と貞享元(1684)年に作られた神輿3基が、八幡宮祭礼用具として、市の有形民俗文化財に指定されている。
祭礼は4月の第2日曜日に行われる。矢場の裏手の御旅所までの神輿渡御には、天狗面と天宇受売命面を着けて奉仕する役が参加し、東の道路では子供による流鏑馬を模した行事も行われる。
豊川の歴史散歩:❺三河天平の里から財賀・萩の山あいを行く 平成25年10月発行より