国分寺をあとに北東方向へ300m行くと、朱塗りの柱に白壁の美しい建物が見えてくる。この建物は、三河国分尼寺の中門及び回廊を実物大に復元したもので、ここは平成17年に開園した三河国分尼寺跡史跡公園である。
三河国分尼寺跡は、国分寺跡とともに大正11(1922)年に国史跡の指定を受けた遺跡である。昭和42(1967)年に行われた発掘調査では、南大門・中門・金堂・講堂・回廊といった主要な建物の位置や規模が判明したほか、金堂の基壇(建物をのせる土壇)が諸国の国分寺の金堂にも劣らない大きな規模であることが明らかになるなど、多くの調査成果が得られた。また平成2年度の調査では、寺の敷地が約150m四方であることが判明し、平成8~11年度の史跡整備にに伴う調査では、新たに鐘楼・経蔵・尼坊・北方建物といった建物跡が確認された。三河国分尼寺の往時の状況は、これまでの発掘調査でその全容がほぼ解明されている。
国分寺クラスの大規模な伽藍
平成10~11年度に基壇の全面調査を実施した金堂跡には、8個の礎石が残っており、基壇の中央部で本尊を安置した須弥壇の跡(高さ約15㎝の土壇)が発見されたほか、基壇の縁辺に積まれた石積みや階段の跡も確認された。基壇の規模は、東西34.4m、南北21.9mと奈良の唐招提寺金堂にも匹敵し、昭和42年の調査当時には「全国最大の国分尼寺」と評価された。各地の国分尼寺跡の発掘調査が進んだ現在、建物規模・寺の敷地の規模(寺域)ともに三河国分尼寺跡が全国一と言えない状況ではあるが、全国的な傾向として国分尼寺は、国分寺に比べ建物規模・寺域ともに一回り小さいのが通例な中で、三河国分尼寺は回廊が複廊構造(連子窓をつけた壁をはさみ両側通行できる)で、金堂・講堂・中門などの主要伽藍が、国分寺クラスの規模であったことが確認されている。この理由については、他国と比べて遅れ気味であった三河国の国分寺・国分尼寺の造営を急ぐため、先行して造営が始められた国分寺伽藍の設計図を尼寺の建設の設計に一部転用したため、国分寺クラスの伽藍が造営された可能性を指摘している。
国分尼寺跡の出土品
これまでの発掘調査により、三河国分尼寺跡では建物の屋根に用いた多量の瓦や、仏具として用いられた土器・陶器類などが出土している。鬼瓦は、歯牙がなくユニークで優しげな顔立ちをしており、本来の鬼の表現がかなり失われたものである。また、墨で「曹寺」「東」と書かれた土器が出土している。
よみがえる天平の遺産 ~国分尼寺跡の史跡整備~
豊川市では、三河国分尼寺跡の活用を目的として、発掘調査の成果を盛り込みながら、平成11~17年度にかけて保存整備工事を実施した。史跡公園内には、中門及び回廊の実物大復元や金堂基壇の復元、周辺遣跡も含めた地形縮小模型などがあり、公園の南には「三河天平の里資料館」が併設されている。史跡公園では各種イベントの実施や市内の小学6年生児童の見学事業が行われており、また資料館では、国分寺跡、国分尼寺跡、国府跡の出土品などが展示されている。
豊川の歴史散歩:❺三河天平の里から財賀・萩の山あいを行く 平成25年10月発行より