冨士神社をあとに西ヘ1.3㎞行くと、龍源寺がある。
『竜源禅寺記』によれば、建久の頃(1190~1199年)に、伊豆国(静岡県)の河津祐親の次男である伊藤九郎祐清の末子・六郎は、時の事変によって萩村で蟄居していた。六郎は萩原を姓とし、その子孫は代々萩原を名乗ったという。龍源寺は、この六郎によって開かれ、当初は萩原寺という名の真言宗寺院であったが、その後、明応年中(1492~1501年)に周鼎和尚が尾張の乾坤院より来て寺を中興し、曹洞宗に改めたという。周鼎和尚は、文亀2(1502)年に遠州大洞院(静岡県森町)に移り、永正13(1516)年春に行脚に出た。そして陸奥国米那寺池村(宮城県登米市)に一年余り滞在した際、村人を苦しめていた龍2匹を法力をもって降伏させ、その災いをなくしたという。喜んだ村人は、新しい寺を周鼎に寄進し、寺の名は、三河龍源寺の寺号を移して「桁淵山龍源寺」としたという。
木造宗鼎仲易肖像 【県指定有形文化財】(見学できません)
龍源寺を中興した周(宗)鼎の木像である。禅宗では、法(教え)は師から弟子へ受け継がれるものであり、よって師の姿を表した絵画や像は大変尊重された。周鼎は永正16(1519)年に亡くなっているが、この像はその手法形態からみてほぽそれに近い年代に製作されたものと思われる。室町時代によくみられる細かい彫刻よりは、鎌倉風の要素の多い力強い立体感が表現されている。
柱杖 【県.指定有形文化財】
長さ215㎝のケヤキの一木造で、鉈目彫りが施され、黒漆で仕上げてある。中央がやや太く天地が細くしてあり、製作時期は室町時代と推定される。禅宗の高僧の持物にふさわしいものである。
黒門 【県.指定有形文化財】
龍源寺の総門にあたる黒門は、薬医門とよばれる形式の門で、屋根は切妻造、桟瓦葺である。古くから黒色に塗られているため黒門と俗称され、承応2(1653)年の建立である。注目されるのは東西横木上に置かれている二つの蟇股で、内側にはそれぞれ牡丹と獅子を彫刻し、外側の板蟇股には1つは剣かたばみ(家紋)、もう1つは三つ葉文様が彫ってある。組物などに、桃山時代から江戸初期の特徴を残している。
龍源寺の板碑 【市指定有形民俗文化財】
板碑とは、主に供養塔として使われる石碑の1種である。境内の墓地にあるこの板碑は、元和9(1623)年の建立で、鈴木監物重光の供養碑と伝えられる。重光は、加茂郡寺部城主の鈴木重教の子で、寺部城落城ののち駿河今川家・甲斐武田家へ赴く途中で合戦にあい、故あって当所に逃れ、この地で蟄居したという。
豊川の歴史散歩:❺三河天平の里から財賀・萩の山あいを行く 平成25年10月発行より