国府とは、奈良・平安時代に当時の行政区分である国(今の都道府県に相当)を治めた役所があった場所であり、地方の政治・経済・文化の中心地でもあった。三河国の国府の所在地については、国府(こう)の地名から以前よりその周辺地域が有力視され、昭和時代の終わり頃までは、国府町にある守公神社周辺(的場遺跡)と白鳥町にある総社周辺(白鳥遺跡)の2つの説が存在した。両説とも、守公神社・総社が各地の国府跡にみられることがその根拠とされてきたが、平成3年以降に行われた発掘調査において、総社周辺の白鳥遺跡で多くの建物跡や国府ならではの遣物が出土したことから、白鳥遺跡がその所在地であることが明らかとなった。
国庁跡
総社の東に隣接する曹源寺境内を中心として行われた平成7~9、17年度の調査では、国府において最も重要な施設である国庁跡が検出された。国庁とは国の政治を司る役人の国司が、政務や儀式などを執り行った施設で、各地における国府跡の発掘調査の成果から、塀などで囲まれた区画の中に、正殿・後殿・脇殿などの建物がコの字型に配置されることが分かっている。三河国府の国庁跡も各地と同様に、掘立柱塀で囲まれた区画(東西64.5m、南北は不明)内に、正殿・後殿・脇殿がコの字型に配置され、それら建物の柱穴跡や石組の雨落溝などが曹源寺境内の各所で検出された。正殿・後殿・脇殿は、柱穴跡の状況により複数回同じ場所での建て替えが認められ、その存続時期は柱穴跡より出土した士器から、おおよそ9世紀初めから10世紀中頃と推定され、各所にごみ穴などが掘られた10世紀後半頃には廃絶していったようである。ただしこの場所では、11世紀代と推定される多量の土器を出土するごみ穴も検出されており、正殿・後殿・脇殿が廃絶した後も、何らかの土地利用が行われていたようである。また、国庁跡の北側一帯で平成10年度から行われている区画整理事業に伴う発掘調査でも、国府に関連する遣構・遺物が数多く検出されており、この周辺がかつて三河の中心地とし栄えていたことがうかがえる。
国府ならではの出土品
役人が様々な場面で文書を取り扱った国府では、一般の集落遺跡ではほとんど出土しない硯、印、墨書土器や、建物の屋根に使用された瓦などが出土している。
豊川の歴史散歩:❺三河天平の里から財賀・萩の山あいを行く 平成25年10月発行より