赤塚山公園から南を眺めると、右方向の田畑の向こうに市田の集落が広がっている。この集落の中に松永寺があり、寺の北東の隅に鳥居強右衛門の生誕地の石碑がある。
天正3(1575)年、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍との間で行われた長篠の合戦は、武田氏に滅亡の道をたどらせ、織田・徳川両氏が強大な勢力となる一因となった。この合戦で大きな役割を果たしたのが鳥居強右衛門勝商である。天正3年5月、長篠城は勝頼の15000人の大軍に囲まれ、落城寸前となった。この時、城主奥平信昌の家来であった強右衛門は、家康に援軍を求める使いとして岡崎に向かうことになった。強右衛門は厳重な敵の囲みを突破して岡崎城に到着し、家康に援軍を求めた。家康はすぐに救援を出すことを決め、強右衛門にも援軍と一緒に長篠城に帰るようにすすめたが、この情報を少しでも早く仲間に知らせようと強右衛門は一人で急ぎ引き返し、城を目前にして武田軍に捕らえられてしまった。勝頼は降参するよう城内に向かって叫ぶことを命令したが、強右衛門は援軍が来ることを伝えたため、怒った勝頼により城内の味方が見守る中で磔にされ、36歳の若い生涯を閉じた。しかし、彼の報告を聞いた城兵たちは見事に城を守りぬき、強右衛門の命をかけた働きが、長篠城内の兵の命を救い、さらに織田・徳川連合軍を大勝に導いたのである。武田方の武将落合佐平次は、強右衛門の働きと壮烈な最期に感動して、強右衛門の磔の姿を描き、指物(背旗)にして戦場に赴いたという松永寺にある強右衛門の磔姿の木像は、大正3(1914)年に豊川町の神谷辰三郎により彫刻されたものである。
豊川の歴史散歩:❺三河天平の里から財賀・萩の山あいを行く 平成25年10月発行より