御油の追分をあとに東海道を北西に250m行くと、音羽川に架かる御油橋がある。この橋は江戸時代にも木橋が存在し、その光景は歌川広重の「狂歌入東海道御油」にも描かれている。かつては、この御油橋を渡ると東海道35番目の宿場町である御油宿に入り、にぎわいをみせていた。
かつての御油宿
御油橋より200mほど先にある御油保育園の角までの地区はかつて茶屋町とよばれ、その名称から茶屋(茶などを提供する休息所)が多かった場所と考えられる。東海道は御油保育園の角を東にまがり、さらに100m先の御油郵便局の角で北にまがる。このように右に左に直角に曲がる道は多くの宿場町でみられるが、これは宿場を見通せないようにした工夫であり、「曲尺手」とよばれる。「曲尺手」は戦国時代の陣地のつくりに由来するもので、敵が進入して来た時に、その勢いを鈍らせることを目的に設計したものといわれる。御油保育園角の交差点付近には高札場が設けられ、ここから先の御油郵便局角までの間はかつて横町とよばれていた。ここは、問屋場が置かれ人馬継立の人々でにぎわった場所でもあり、吉田宿方面からの入口にあった旅籠の戸田屋は、ベルツ博士の妻である花の父親の実家と伝えられている。御油郵便局の角から御油のマツ並木までの550m余りの地区は仲町とよばれ、本陣や旅籠屋、商家などが立ち並んだ、御油宿で最もにぎわいをみせた場所である。「東海道分間延絵図」(幕府が作成した「五街道其外分間延絵図並見取絵図」の一部で、文化3(1806)年に完成した図。調査に基づいて街道の様子が詳細に描かれている)には仲町に4軒の本陣が描かれているが、天保4(1833)年の火災で2軒が焼失してしまった。「宿村大概帳」(幕府が管轄した街道の各宿駅と沿道の概況を記した帳簿で、天保14(1843)年頃の作成とされる)によれば、御油宿の家数は316軒であり、本陣が2軒、脇本陣はなく、旅籠屋が62軒で、人口は1,298人(男560人、女738人)であった。男に対して女の人数が多いのが目につくが、これは次の赤坂宿にも共通した特色である。これは「御油や赤坂吉田がなけりゃ 何のよしみに江戸通い」と歌われたように、御油宿が遊興の宿場町であったことによるものであろう。
豊川の歴史散歩:❹東海道沿いの町を行く 平成25年10月発行より