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御津町商工会

⑫御油のマツ並木

171-1.jpg東林寺を出て東海道を北西に向かい400mぼど進むと、御油のマツ並木の入口がある。ここから先約560mにわたり、街道風情を残すマツ並木が続く。

江戸時代のマツ並木
東海道の並木は、江戸幕府により慶長9年(1604)年から整備されたといわれる。おそらくその頃に御油のマツ並木も整備されたと考えられるが、いつ、どような形で整備されたのかは史料がないためよく分からない。街道並木の整備の目的は、夏は暑さをしの木陰をつくり、冬は冷たい北風や雪をやわらげ、旅がしやすいようにするためといわれ、また事ある場合に松を切り倒して敵の進行を妨ぐことも目的の一つとされる。現在のマツの総本数は300本に満たないが、江戸時代には御油宿境から赤坂宿境までの街道両側(北側約820m、南側約710m)に、約650本のマツが植えられていたことが地元に残る史料から分かる。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』に、うっそうとしたマツ並木を背景にした狐騒動の様子が記されているように、江戸時代後期には御油のマツ並木は広く知られていたようである。
マツ並木は、江戸時代を通じて幕府による厳重な管理が行われ、立枯れによる伐採や大風による倒木の処分などには、そのつど役人の検分を必要とし、勝手に処分することは禁止されていた。また、マツが失われた箇所には、松の植え継ぎが恒常的に行われ、これにより並木景観が維持されてきた。街道の管理については、周辺の村々などに命じられていたが、御油のマッ並木の管理は御油宿及び広石村・赤根村の担当であった。

明治時代以降のマツ並木とその保護活動 【国指定天然記念物】
明治時代になると、宿駅制度がなくなり、街道並木の管理体制もあいまいになった。そのため、御油のマツ並木はなかば放置の状態が続いたが、地元住民による自発的な保護管理も行われていた。その後、太平洋戦争末期頃には、全国で木材・燃料の確保のため多くのマツが伐採されたが、これを憂慮した地元住民年は350年間守り続けたマツ並木を何とか守ろうと、文化財指定の働きかけを行った。その結果、昭和19(1944)年11月7日に、東海道の松並木の中で代表的なものとして国天然記念物の指定を受け、保護が図られることとなった。現在、街道筋の松並木としては、唯一国の指定を受けている天然記念物である。
戦後、モータリゼーション化が進むと、交通量の増大や道路の舗装などが進み、また周辺地域の宅地化も始まるなど、マツ並木の環境条件は急速に悪化していき、昭和39(1964)年にはマツの総本数は171本にまで落ち込んだ。そのような中、昭和47(1972)年に地元住民らにより御油松並木愛護会が結成され、昭和50(1975)年2月には219本という大々的な補植が行われた。また愛護会では、定期的な見回り・清掃・下草刈りなどを継続的に実施しており、御油のマツ並木はこのような地元の方々の熱心な保護活動により守られている。

    豊川の歴史散歩:❹東海道沿いの町を行く 平成25年10月発行より