杉森八幡社をあとに東海道を北西に1.7㎞進むと、長沢小学校がある。
その東角の交差点を北に入り、国道1号をくぐって進んでいくと住宅街がある。この一帯が長沢城跡である。
長沢城は、長沢松平氏の居城である。記録によれば長禄2(1458)年に松平信光(三河松平氏3代当主)が長沢四郎の守る城を攻略し、子の親則(長沢松平氏の祖)にこの城を与えたとされるが、長沢の地には岩略寺城・登屋ヶ根城もあるため、それがどの城なのかははっきりしない。現在、城跡のほとんどが宅地化され、空堀の痕跡のごく一部と井戸が残存するのみであり、現状からは城跡の状況をうかがうことはできない。ただし、元禄12(1699)年の「三州宝飯郡長沢村御殿絵園」(赤坂宿場資料室に展示)などから、往時の城の様子が復元でき、東西200m、南北250mの城域に、三重の堀をめぐらした構造であったことが分かる。絵図に描かれたのは城の終末期の状況であるが、その規模からして領主の在地支配のための拠点である居館としての機能だけでなく、軍事的な要素を備えた城郭であったと考えられる。15世紀中頃に、長沢松平氏の居館として築造され、その後改修が加えられ絵図のような城の姿になったと推定される。
豊川の歴史散歩:❹東海道沿いの町を行く 平成25年10月発行より