小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

⑥高膳寺

国府観音をあとに東へ100m進み、車がやっと通れるほどの小道を北にま161-2.jpgがり200m行くと、高膳寺がある。
高膳寺の境内には、本堂・庫裏・十王堂・田沼稲荷・国府天神などの建物があり、その周りに立ち並ぶ「国府天神」と朱色で書かれた千本織が目を引く。だが来訪者に歴史を感じさせるのは、建物や庭木の陰にひっそり立っている筆塚と相良領の石碑であろう。

筆塚
田沼稲荷と十王堂との間にある。高さ約2m、幅50㎝ほどの平たい自然石の碑で、天保11(1840)年に建てられたものである。高膳寺には天保(1830~1844年)の頃から明治初年(1868)まで寺子屋(江戸時代において、庶早の子どもに読み·書き・そろばんなどの教育をした施設)が置かれ、120名ほどの子どもたちが学んでいたという。この筆塚は、寺子屋開設当時の筆子(生徒)たちが、亡くなった師匠・亮屓の供養のために建てたものである。碑面には、亮屓が詠んだ「世の中を 月雪花に暇して 乗り得て帰る 般若会の舟」の歌が刻まれている。

相良領界の石碑
本堂裏手の庭に「従是南162-2.jpg相良領」と刻まれた、高さ1.4m、幅30㎝ほどの石碑がある(見学できません)。これは遠江国(静岡県)相良藩主の田沼意次が、国府村を領した時に領界を示すものとして建てたものである。意次は、安永元(1772)年に老中(江戸幕府の職名で、幕政を仕切った)となってから、天明6(1786)年に失脚するまでの15年間、三河国において国府村のほか、森・為当・御馬など12か村を所領とし、これらの村々を支配するため国府村に陣屋を置いた。意次は賄賂によって幕政の腐敗を招いたとされる人物であるが、天明の飢饉(1782)では、所領内の困窮者に対して救済を行うなど善政もみられたようである。意次の失脚後、その所領はことごとく没収され、陣屋も撤去されてしまい、今は高膳寺付近に田沼陣屋があったと言い伝えられるのみである。この石碑は国府村と御油村の境にあったものを移したもので、弘法山登り口に移された国府村と小田渕村の境にあった「従是北相良領」の石碑とともに当時をしのぶことができる。

    豊川の歴史散歩:❹東海道沿いの町を行く 平成25年10月発行より