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御津町商工会

⑬赤坂宿

御油のマツ並木をあとに東海道を北へ進み、天王川の一ノ橋を渡るとすぐに、東海道36番目の宿場である赤坂宿に入る。

赤坂宿の今と昔
赤坂宿の東と西の入り口には、かつて見付が設けられていた。見付とは本来「173-1.jpg見張り所」「警備所」のような施設をいうが、宿場の入り口に設けられたものは土手や柵など形式的なもので、宿場の範囲を視覚的に示す効果もあったと思われる。現存してはいないが、当時の絵図や浮世絵などに赤坂宿の見付が描かれており、当時の様子を知ることがきる。宿場に入って200mほど進ん左手に、かつて弁財天とよばれた関川神社がある。ここの境内には樹齢800年といわれるクスノキの巨木があり、その大きさには目を引かれる。さらに250m進んだ赤坂紅里の信号亦差点付近が宿場の中心部で、交差点角には観光案内板や休憩所が設けられている。「宿村大概帳」によれば、赤坂宿の家数は349軒あり、そのうち本陣が3軒、脇本陣は1軒、旅籠屋は62軒である。3軒あった本陣のうち最も大きいのは、問屋場も兼ねた彦十郎家で、赤坂紅里の信号交差点の南がその跡地である。この交差点より70m進んだ左手には、江戸時代の旅籠屋の建物である大橋屋があり、その裏手にある赤坂保育園の入り口あたりは赤坂代官所跡である。赤坂代官所は、天和2(1682)年に三河の天領(江戸幕府直轄の領地)を治めるため、代官国領半兵衛によって設けられ、当初は赤坂町東裏の龍泉院あたりにあった。その後、元禄2(1689)年に代官野田三郎右衛門によりこの場所に移され、寛政9(1797)年には遠江国中泉代官所赤坂出張陣屋に改められた。大橋屋より100m進んだ左手には休憩施設の「よらまいかん」があり、その西の音羽生涯学習会館の2階には、赤坂宿場資料室がある。「宿村大概帳」によれば赤坂宿の人口は1,304人(男578人、女726人)で、御油宿と同様に女の人数が多いのは、遊興の宿場であったためであろう。

東海道で一番宿場間距離の短い御油・赤坂宿
御油宿と赤坂宿の間の距離はわずか16町(1.7㎞)である。東海道の平均的な宿場間距離は、おおよそ2里(約8㎞)前後であり、長いところで4里(約16㎞)、短いところで1里(約4㎞)未満もあるが、なかでも御油・赤坂宿間は最も短い距離であった。徳川家康は、慶長6(1601)年に各宿場へ伝馬朱印状などを発し東海道の整備を行うが、赤坂・御油宿に対しては、一通の伝馬朱印状に両宿の名が宛名に記されており、このような例は他ではみられない。これは地理的に非常に近い両宿場を―つの宿場とみなしたものと考えられ、このことは伝馬継立の決まりからもうかがうことができる。通常、人や荷物の継送りは宿場を通り越すことが禁止されていたが、御油・赤坂宿においては、下り(江戸方面)が籐川から赤坂を通り越して御油まで行き、上り(京都方面)は吉田から御油を通り越して赤坂まで行くように決められていた。

    豊川の歴史散歩:❹東海道沿いの町を行く 平成25年10月発行より