山号を夏雲山といい、東漸寺の末寺でした。岩瀬市右衛門重賢が享保10年(1725)に書いた覚書によると、古くからあった寺が中絶していたのを、岩瀬氏の先祖が、大永元年(1521)に氏寺として再興したとなっています。
岩瀬氏は、下長山を根拠地とし、今川家の東三河十七騎に名を連ねる有力部将でした。
系図によりますと、雅楽之介を中心として、清兵衛氏貞と、藤左衛門貞重の3人が、今川家に仕えていました。桶狭間の敗戦後、雅楽之介は上佐脇村に帰農し、吉十郎貞秀と名を改めました。天和元年(1681)の岩瀬宗太夫重貞の記録によると、氏貞の子吉左衛門氏与は、徳川家の旗本になったとのことです。
岩瀬氏の本家は、代々氏神様の神主を勤めていましたが、明治初年に神道となり、寺の本堂を民家に造り替え、明治16年には寺を廃止しました。本尊の聖観世音菩薩は、常光寺に祀られることになりました。墓地には、吉十郎の外、岩瀬氏等の墓があります。
※岩瀬忠震
牛久保、千両、大塚、上佐脇等に関係あた旗本岩瀬氏は、旗本設楽氏から養子に入った忠震の代に表舞台に立ちました。
忠震は、幕府の昌平校出身の秀オで、黒船来航の困難な時代に外国奉行に抜擢され、アメリカ、オランダ等の諸国と修好通商条約を調印しました。
晩年は、将軍継嗣問題にからんで左遷され、不遇の中に若くして亡くなりました。
東京雑司ヶ谷霊園に眠っています。
大恩寺にはかつて、岩瀬杉の大木や、岩瀬氏の墓がありました。家紋は三本杉です。
みと歴史散歩:❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より