広沢虎造の浪曲に「東海道にゃいい親分がいるぜ、三州寺津の間之助、西尾の治助、宝飯郡の雲風亀吉、御袖の玉屋の源六なんてたらすごいからな…。」という石松の代参のくだりがあります。ここに出てくる雲風亀吉は、晩年を下佐脇で過ごした人です。
この雲風亀吉は文政11年(1828)平井村(小坂井町平井)の大林常次郎の次男として生まれ、若いとき江戸相撲の清見潟部屋に入門し、後には序二段一九枚目(一説には幕下十両)まで進みました。そのときの四股名を雲風といい、相撲を廃し侠客となった後も、この名を使っていました。
相撲廃業後、帰郷して当時東三河で売り出し中の親分、渥美郡小中山の七五三蔵の身内となり、やがて2代目を継いで平井一家の親分となりました。
幕末期の三河博徒は、吉良一家(吉良町)と平井一家が対立していました。それに加え、清水次郎長と対立していた黒駒勝蔵を平井一家がかくまったことから、清水一家の殴り込みを受けることになりました。
文久3年(1863)6月6日の早朝、形原の斧八宅で勢揃いした清水一家の大政と斧八の率いる43名(35名との説も)は、2艘の船に分乗して形原の海岸を離れました。
雲風宅では清水勢が間近に迫っているとは露知らず、2階で勝蔵と亀吉を上座に、子分5人が車座になって、亀吉の妾に酌をさせて小宴を開いておりました。その時、突如1発の銃声、続いて2、3発、清水勢に殴り込まれたのです。勝蔵と亀吉は子分の働きで、奥薦と筍笠を着けて百姓姿に変装し危う<難を逃れましたが、子分5人と妾は無惨な最期を遂げました。
そして、その年の12月27日には、逆に亀吉の弟善六らが形原の斧八宅を襲撃して仕返しを果しています。
やがて世は明治維新を迎えることになり幕府を追討する官軍の中には、尾張藩2,000名も加わっていましたが、藩は正規軍の温存を図るため、闘争力に富んだ博徒部隊を起用することになりました。
そこで斧八襲撃後、名古屋に潜伏していた亀吉ら博徒に対して、尾張藩から働きかけがあり、慶応4年(1868)亀吉と近藤実左衛門らの配下の博徒で集義隊が結成されました。藩は亀吉の出身地に因んで平井という姓を与え士分に取り立てました。彼らは越後国(新潟県)長岡攻略に参加しました。明治元年12月、7か月振りに凱旋し、功により士族になりました。前科を黙認し、士族に採用することを条件に、博徒たちを倒幕の先鋒に利用したわけです。この集義隊も明治4年廃藩置県とともに解散になりました。その後亀吉は、下佐脇の本見地に移り住み、清水の次郎長と同じ年の明治26年3月24日に行年66歳で亡くなりました。
一世を風靡した大侠客もここ下佐脇是願に葬られ、白川のせせらぎを梵唄の声と観じつつ静かに眠っているように思われます。
みと歴史散歩:❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より