上佐脇部落の南方を流れる白川は、昔は野川といって、大雨が降れば水量を増し、橋がないために、村人はたいへん難儀をしていました。江戸時代のころ、村の青年たちは、このことを何とか解決したいと相談し、近郷近在の家を廻り、念仏を唱えながら、喜捨を集めることにしました。このわずかずつのお金を積み立て、何年もかかってついに橋を完成させ、これに因んで名も「念仏橋」と決められました。古地図によると、享保9年(1724)のものには、橋の印がありませんが、享和3年(1803)の地図に橋の記号が明示されています。この頃に架けられたものと思われます。
【白川改修工事】昭和8年ごろ、県営の白川改修が、農村振興土木工事として、実施されました。川幅も4mから35mに広がり、地元の田畑。山林等2町2反余りが買い上,げられ、丈夫な堤防も完成しました。この時、念仏橋を架け替えるについて、地元の区長にも相談がありましたが、県の強い意向により、「念仏橋」の名を廃して、「野川下橋」と決められてしまいました。
村を愛し、人を助けることに尽力した青年たちの美談は、「念仏橋」の名と共に、長く語り伝えていきたいものです。
七本塚
鷺坂の戦いに敗れた新田義貞の部将などが上佐脇まで落ちのび、自刃して果てました。村は、その七つの塚の上にそれぞれうつぎの木を植えて大切にしました。昔は、夜になると、白馬に跨り、血まみれの武士が駆けるからといって恐れられました。
歯の痛みに悩む人がお参りすると、すぐ治るので、御礼にこぬかを1升ずつ持っていき、塚に供える習わしでした。
土地改良で、これらの塚は削り取られて今はありませんが、この時に、4mの地中から平安時代と思われる須恵器片が発掘され、御津町に保管されています。
宇井伯寿博士の印度哲学研究
御津南部小学校の玄関の掲額「忠孝」は、印度哲学の研究業績により昭和28年文化勲章受賞の宇井伯寿博士の筆になります。
昭和11年八月に改築竣工の同校講堂に某氏主計筆の「至誠」と並び掲げられていました。
薄士は下佐脇村に生まれ、伊奈の東漸寺で得度、後に同寺第34世住職となりますが、印度哲学研究の権威として東北帝国大学・東京帝国大学の教授を歴任、戦後は名古屋大学にも在任されました。『印度哲学史』ほか多くの著書があり、昭和38年7月、81歳で逝去しました。
みと歴史散歩:❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より