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御津町商工会

③ 久保田城跡

107.jpgこの土地は、慶長9年(1604)の検地帳に小字名として「久保田屋敷」と書かれています。明治21年に内務省に提出した地誌の控えには、「久保田氏旗本の城あり」と記入されています。現況は、安藤川に沿った低い湿田地帯で、俗に「こぶた」と呼んでいました。
久保田京一家の系図によりますと、慶長9年御検地所持田畑御竿請主源左衛門、法名白峰金清と書いてあります。
城の鎮守社として、「鷹子天王社」が祀られていました。城主の可愛がっていた鷹の巣があったのでこの名となりました。この神様は、大へん霊験あらたかで、お参りをすると疫病にかからないで済むという信仰がありました。明治初年以来、久保田家の屋敷に移されて、久保田一族の氏神として、同族の尊崇を受けています。
城址付近一帯は、共同苗代場として利用されていましたが、現在は、ひまわり農協西部営農センターの敷地になっています。近くには、久保田橋という小さな橋があり、わずかにその名を留めています。
昭和20年8月7日、豊川海軍昭工和廠二が、大爆撃を受けた時、この付近で作業をしていた二人の青年が、投下された爆弾の犠牲になりました。

       みと歴史散歩❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より