当寺は臨済宗妙心寺派の巨刹で、中本山となっています。創立は応安2年(1369)で近江国(滋賀県)愛知郡の永源寺にいた円明証智禅師と勅賜された松嶺和尚が開山です。
御本尊は如意輪観世音で、紀州(和歌山県)熊野那智山青岸渡寺の分身といわれています。
その昔、下佐脇は紀州熊野との関係が深く、当寺は熊野権現を祀る佐脇神社の奥の院といわれてきました。
開山の松嶺和尚は中国の宋の国に留学したとき、台州西河において道観居士抱雁という医者から製薬の法を会得して帰り、混元丹と名付けて販売していましたが、明治新政府の売薬禁止令が出たので薬の製造を止めました。
今は、万治2年(1659)に住職冷天和尚の作った薬箱が唯一つ残っているのみです。
当寺の住職は、幡豆郡吉良の華蔵寺との交流が深く、忠臣蔵に出てくる吉良上野介は、領地吉良と江戸との往復にあたって、長松寺にしばしば立ち寄ったようで、上野介が使用した膳が保存されています。なお、当寺には狩野探幽、常信、小堀遠州等の画幅や書状があります。
叔叢師翁碑
山門前の石碑は当寺第8世叔叢禅師の功績を讃えて弟子たちが建てたものです。碑文は東三河の漢文の手本といわれるほどの優れたものです。
叔叢禅師は遠州(静岡県)の生まれで、幼くして禅寺に入り修学をし、長ずるに及んで大和国(奈良県)金剛山や山城国(京都府)八幡の達磨堂などで求道に努めていましたところ、長松寺の第七世大義禅師が老齢になり、請われてその後を継ぐことになりました。叔叢禅師28歳の文化八年(1811)のことでした。
師は子弟の教育に熱心で、多くの有能な人材を育てました。その中には宝飯郡初代郡長の竹本元すぐやその兄弟もいました。
安政4年(1857)5月20日病に伏して74歳で亡くなりましたが、在職中は十六羅漢の安置、梵鐘の鋳造、堂宇の修補や幾多の什器を備えたりして当寺のために尽くしました。
山伏塚の観音像
境内墓地の一角に如意輪観音の石像が祀られています。この観音像については次のような言い伝えがあります。
佐脇神社と紀州熊野権現とは関係が深く、熊野より初穂米を取りにくる山伏の数がしだいに増えてきました。困惑した村人は、山伏70余人を殺して村のそこここの塚に埋めたところ、それに触れて病気になる者が多く出ました。そのため宝永5年(1708)当寺の境内に塚を集めて改葬し、その上に如意輪観音像を安置し供養したところ、この憂いは除かれたということです。
この観音像は、那智から取り寄せた石材で西国第1番の青岸渡寺の本尊仏の如意輪観音像を模したものと伝えられています。石像の台座には観音像建立の由緒が書かれています。
この山伏塚の供養は、平成の現在も侮年2月17日に当寺の住職を始め末寺の僧侶、大字の正副区長・区議員、一般の人々などの参列のもとに行われています。
どんき〈秋葉三尺坊大権現例祭〉(町指定無形民俗文化財)
毎年12月17日当寺で行われる秋葉祭りを「どんき祭り」といい、土地の人は「どんぎ」と呼んでいます。
当寺第六世天令和尚(寛政11年1799没)の代、下佐脇村の村人が火防の神である秋葉三尺坊大権現を遠州秋葉山より勧請し、境内に秋葉堂を造営し祀ったと伝えられ、堂前の灯籠に天明8戊申年(1788)霜月吉日とあるので、その頃に祀られたと思われます。
どんき祭りが勧請当初から行われていたかは不明ですが、人集めのための余興といった性格のもので、ずいぶん以前から行われていたようです。
祭りの当日の午後、本堂の秋葉三尺坊大権現前で、当寺の方丈と侍僧6人による大般若経の読経後、大字区長が先頭に立ち塩を撒き道中を潔めながら進み、その後ろに方丈侍僧が、さらに各区の幟を持った区議員、最後に稚児(現在は菊保育園の年長組の園児)の従う行列が300mほどの東の明王院までを往復するのです。この行列に狐の面の装束をつけた2人、天狗と烏天狗の面と装束をつけたのが各1人従って行きます。
この狐が手にしている木の棒がどんき(撞木)で、この棒につけたベンガラ(インドのベンガル地方に産する顔料、現在は赤の食紅を使用)を子供たちにつけようとします。天狗は八つ手の団扇でうちたたこうとして、追いかけ合いが始まり、からかいの声や悲嗚、見物人の笑い声などが辺りに満ち楽しい祭りとなります。
長松寺のギンモクセイ(町指定天然記念物)
本堂前に植えられています。モクセイの大木は旧家などで見受けられますが、これほど姿、形の立派なモクセイは珍しいといわれています。海苔の養殖の盛んであった頃は、この花の開花を粗朶(カシやシイなどの枝)さしや網張りの時期の目安としました。
目通り2.03mと1.03mの二つの幹で、根回り3.01m、樹高7.00mで、樹齢は200年以上と思われます。
みと歴史散歩:❸音羽川の周縁 平成12年2月発行より