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御津町商工会

⑨ 浄願寺

160.jpg本寺の開基は大恩寺の第2世肇誉訓公上人で、文明9年(1477)(1説に永正15年1518)の創建とされます。山号を弘誓山と云い、本尊は阿弥陀如来の座像で京都の大仏師宮内法印定朝の作と伝えます。向って左脇壇の、ほぼ等身の木彫観音像は白鳳仏に模したもので、昭和31年に岡崎市の小針某氏より寄進されました。
寄棟造りの本堂は天保5年(1834)の建立になり、庫裡は同4年のものです。山門を入って左手にあった地蔵・観音の2堂は、境内の御津南部保育園の改築(平成5年)にともない一宇に統合され、行者堂とともに本堂左脇に移されました。
元来この寺は御馬城址の西南、旧字須賀にあり、寛永13年(1636)に津波に襲われ、翌年現在地に移転再建されたとのことです。

境内石仏群
かつての3堂は明治12年の報告書にも載っていますが、今の堂の前に整頓された四国八十八所の霊場の本尊と弘法大師を台座に安置する石像八八基は、大正12年に地元の人々が寄進したものです。今も大師の命日には、「弘法さま」と称して接待が行われ、参拝客で賑わいます。
その東端に田中製糸寄進の繭弘法とも呼べる像と並んで、元禄15年(1702)建立の青面金剛童子塔があり、当寺には今なお庚申講が続けられています。
また本堂の向って右手前の植込みの中に、弘化4年(1847)の西国三十三所観音巡拝記念として、自然石の碑がひっそり立っています。
門前には一部損壊した常夜燈があって、享和2年(1802)と刻まれています。

庚申信仰
人間の体内には3戸という3匹の虫がいて、庚申の晩に人が寝ると抜け出して天帝にその人の60日間の罪を報告し、死を早めるが、人が庚申の日に身を慎んで夜明しすれば、三戸は天に上れず、人は早死を免れると説くのが、中国の道教の三戸の説です。これに仏教や神道あるいは民間信仰などがさまざまに習合して、中世後期に庶民層にも弘まった信仰です。

石仏小見
16世紀中期の国語辞書『運歩色葉集』に「石仏」、また17世紀初めの『日葡辞書』に「Ixbotogue:Fotogue de pedrg」とあります。そのころ石仏・石塔が多く造られようになった証しでしょう。町域に多く見られる近世以降の石仏類から例えば、次のようなことがわかります。
1、寛文期(1661~)の五基の西国三十三所観音碑は駒型が主流で、やがて自然石に代り、台座に同行・巡拝者を刻むようにもなり、さらに三十三所の観音像、を堂内に祀るようになる。
2、四国八十八所霊場に擬した弘法大師像は、弘化元年の財賀寺の例が当地方最古とされるように、時代が下る。
3、路傍にあった辻地蔵が寺内に移されたり、境内の整理で動かされた石仏の例は少くなく、注意が必要である。

       みと歴史散歩❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より