真宗大谷派の本寺は山号を臨海山と称し、かつては岡崎市佐々木の上宮寺の末寺でした。
文明8年(1476)に釈西善法師によって開創、西方寺を称し、場所も八幡社の旧地西脇の西南にあったのが、永禄年中(1558~)に現在地に移されたと伝えます。
正保4年(1647)に本山から阿弥陀如来の木像を下付された折りに、今の寺名に改まりました。
本堂脇壇の聖徳太子像は、明治の初め廃仏毀釈の嵐のころ、赤根の今泉唐左衛門が伊勢から譲り受けたものと伝えます。
開基の西善法師は、村上源氏の流れを汲む村上新三郎義通の1子源八郎義茂が仏門に入ての僧号で、歴代住職はその村上氏です。
中にも、明治8年に村上界雄の養子として兵庫県の広崎氏から迎えられた専精は、明治から大正にかけて、仏教史の権威として広く知られました。その略歴を追ってみると、養子後13年上洛して大谷教校に入り、同17年越中校校長、同20年東京に出て仏教講話所を開き、同23年文科大学(現東大)の印度哲学講師、同32年文学博士、大正6年東京帝大教授と、学僧として名声を得る一方、仏教統一論を主唱するなど変革志向も鮮明でした。昭和4年79歳で没しました。
本堂裏手の、亀を台座とする墓碑は、船問屋にして郷土史研究に足跡を残し、和算家としても知られる渡辺富秋で、側面に辞世の漢詩と和歌が刻まれています。
また延宝期(1673~)の史料に船主として名の出る与次兵衛の墓も見出されます。
境内の一角には昭和57年建立の、御津磯夫の歌碑があります。その境内を、山門を額縁にして見入ると、四季折々の花樹に常緑の立木が映え、その上にそそり立つ本堂の屋根の線とともに印象的です。
渡辺富秋
通称久右衛門、号を老竜斎.頽翁魯聵といい、その祖は大永元年(1521)に渥美から御馬に移り、延宝(1673~)のころには廻船問屋として久右衛門の名が見られます。富秋はその家業を継ぎながら郷土研究や和算に出精し、多くの編著書を残しており、その三点は町指定文化財になっています。辞世から貞享元年(1684)の出生、明和元年(1764)に没と知られます。
みと歴史散歩:❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より