長床遣跡の発見された南部小学校は、大正2年に新築され、翌年4月から南北両小学校の1村2校制が緒についたのですが、それまでに10年にわたる曲折がありました。
明治39年7月に旧御津村(西方・汗野・広石・豊沢・金野)と御馬村・佐脇村とが合併して新御津村が誕生した時、旧三村にはそれぞれ尋常小学校が(佐脇村は2校)ありました。それが県の諮問によって広石と下佐脇の2校を残して他の2校を廃すると村会で議決・答申したことから紛糾が始まりました。
それに分村問題が絡んで、学区の制定も旧村間の対立を深め、隣接町村長による2区3校案による調停も試みられたのですが、結局は3村合併時の初代村長で、後に衆議院議員となった小林仲次の拠金によって、加美に新校舎の建設が進められ、名実ともに1村2校制に落ち着いたのは、実に大正6年のことでした。
そうした南部小学校の生い立ちを、その前身にまでさかのぼると次のようになります。
明治5年の学制発布の翌年9月25日、下佐脇村の正眼庵を仮校舎として、上佐脇・下佐脇・同新田・御馬の4か村を学区とする第10中学区第47番小学校が開校しました。
翌々8年に御馬村に引馬学校が分離独立し、ついで12年には上佐脇村に上佐脇学校が独立し、第47番小学校は佐脇小学校と改称しました。
翌12年佐脇学校は正眼庵から本見寺本堂に移転して公立佐脇学校と改称を重ねました。
さらに、15年9月には同村宮本の地に木造2階建ての新校舎ができ、それまでの寺社依存の旧態を脱して、新しい歩みが始まったのです。
明治25年3月佐脇尋常小学校と改称、同35年7月に高等科が設けられて尋常高等小学校となり、以後、大正元年12月に大字御馬字野添・長床に木造平屋建校舎四棟が落成するまで、学び舎として年齢を刻みました。
明治8年に分離独立した御馬村の第162番小学引馬学校は、引馬神社東隣地に弁天池の舞台を移転改築して校舎としましたが、同15年に字西に校舎を新築することになり、5月10日付で県会宛に「小学校新築伺」と、敷地等寄付願などが提出されました。同20年に尋常小学校御馬学校と改称、統合後もしばらく校舎に充用されました。
同じく明治12年独立した第143学上佐脇学校は、同年20年、一旦佐脇学校に復帰しましたが、同35年再び分離し、薬師堂を仮校舎とする上佐脇学校を設立、大正元年まで存続しました。
以上の3校が統廃合される形で、多くの曲折を経て、御津南部尋常小学校の誕生となったわけです。
みと歴史散歩:❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より