引馬野に匂ふ榛原入り乱り衣にほはせ旅の験に 長忌寸奥麻呂
大宝2年(702)に持統上皇が参河の国に御出なさった時の歌として、『万葉集』巻一に載るこの歌の引馬野の所在については、賀茂真淵による遠江説(現浜松市)が知られます。
しかし、真淵以前における渡辺富秋の郷土研究に光を当てた御津磯夫(今泉忠男)に続いて久松潜一ら国文学者や歌人斎藤茂吉などが、当地に求める三河説を有力なものにしました。
引馬神社境内の茂吉の筆蹟による引馬野阿礼 乃崎碑は、前項に述べた事情によるもので、その時の茂吉に次の詠歌があります(『霜』引馬野六首中)。
わき出づる水のゆたけき海のべにいにしへの代の御幸おもほゆ
いにしへの引馬の野べをゆきゆきて萩の過ぎたることをしおもふ
かつて当地の豊かな地下水脈は、ホリヌキと呼ぶ、地中10mばかり打ち込まれた管から自噴水として湧き出たものですが、戦後いつか見られなくなりました。2首目の「萩」は、原歌の「榛」をハギと訓む説に従てのことです。
なお隣接の為当町の小公園にも「引馬野」の碑が新旧2基あります。佐脇原の例もあるように、引馬野というのはかなり広大であったでしょうから、為当あたりにも及んでいたと考えてよいと思われます。
みと歴史散歩:❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より