本寺は京都知恩院を本山とする浄士宗鎮西派に属する大恩寺の末寺で、文明17年(1485)に潮誉上人を開基として創建されました。
本尊は安阿弥作と伝える阿弥陀如来の立像で、脇壇には不動明王が祀られています。一説に延宝8年(1680)京都の大仏師雲松法橋の作という不動尊は、秘仏として厨子深く安置され、お前立の像高150㎝の不動像が憤怒の相を見せています。
本堂は万延元年(1860)に建てられたものですが、昭和28年の台風13号には海水が床まで浸入したとのことです。近年屋根の葺替えなどが行われ、あわせて境内の石仏の整頓なども進められました。
石仏には、山門を入ってすぐ左手に辻地蔵があり、台座に「文政□左よし田・右こゆ」と刻まれ、元は門外の道標と知られます。
その奥手に謙挙円澄上人の建てた光背型の庚申碑(寛延2年1749)など3体の石仏に並び、3基の西国三十三所観音碑が立ちます。角柱型の1基は延宝3年(1675)のもので、他の2基の台座には同行の名が刻まれますが、延享元年(1744)・文化元年(1804)と年代がやや下り、あるいは巡拝記念の建立かとも思われます。
これらの石仏に、かつての信仰の姿が窺い知られるというものです。
【十王堂】本堂の向って左の一棟に閻魔王を始め十王が祀られ、亡者が裁きを受ける様を表わしています。この十王堂は元禄2年(1689)に創建され、元は東御馬火の見櫓下にあったのが、明治6年3月の県の布達により当寺に移され、近年改築されたものです。その旧地を今も年輩者はジュウオウと呼び、引馬神社の祭礼には還幸の神輿を休めて、七福神踊りや笹踊りを演じる広場となっています。
本堂裏の墓地に歴代住職の卵塔も並びますが、その台座に「筆子中」と刻むのがあります。当寺に寺子屋が開かれていた証です。ただ地震などで倒れた際、必ずしも元通りに復元できなかった由で筆子の銘だけで師匠と特定できないようです。
ほかに、以前は山門の外にあった、当所の義太夫節の名手鶴沢七三郎・竹本信太夫父子の墓や、戸長制・町村制など地方制度の変動期に地域の自治振興を担った石川玉三郎・彦七親子ら石川家の墓碑があり、無言のうちに昔日を語りかけてくるようです。
昔と言えば、本堂外陣に掲げられた狂俳の奉額も、今は忘れられた庶民の娯楽の一端をのぞかせます。また寺伝の江戸幡随院上人筆雨乞い名号の一軸は、他に術のなかった村民の切なる願いの証と言えます。
浄土寺夜白と俳僧轍士
諸国行脚の轍士が当寺の夜白らと唱和した句が『誹諧白眼』(元禄5年)に見えます。
同州浄楽寺夜白御馬の浜に誘われ(下略)浦涼し御坊も塩を手伝ふか 轍士
蠣からにうく生海松の色 夜白
みと歴史散歩:❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より