延享3年(1746)の御馬・下佐脇両村の論所絵図では、今の引馬神社一帯を含めて、松の多い海岸部が南東に延びて岬となっていて、「安礼野崎」と書き込まれた写しがあります。『万葉集』巻一の高市黒人の「いづくにか船泊すらむ安礼の埼榜ぎ廻み行きし棚無し小舟」の故地を当地に求める説の一根拠とされます。
音羽川河口の現況は近代の改修によるもので、それ以前は今の国道あたりで南東に折れ、下佐脇新田地内で海に注いでいたのです。戦後もその川筋跡に葦など茂り、昔の面影を残していました。
ともかく古代ゆかりの伝承の地ですが、近世になると、東三河天領の年貢米を積み出す。
御馬湊は、三河五箇湊の一つとして栄えました。五箇湊は寛永12年(1635)代官鈴木八右衛門、鳥山牛之助による制定とされます。
遠く新城・稲武方面からも運ばれた年貢米が、海上130里を江戸まで廻漕されたのです。また伊勢参宮の道者船も当湊から出され、大正ころまでその名残りがあったと言います。
みと歴史散歩:❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より