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御津町商工会

⑤ 海元寺 *松平三休の墓

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本寺は天文8年(1539)の創立で、開山は功厳和尚です。臨済宗妙心寺派に属し、嵩山の正宗寺の末寺になります。山号を安泰山、本尊は行基作と伝える地蔵菩薩ですが、小形のため祖円首座の時に新たに大きく彫った地蔵尊の胎内に納められました。
長沢松平家と縁があったため、小寺ながら葵を寺紋に用いる本寺は、吉田近辺三十六地蔵尊の第28番札所となっています。
山門を入って左手に観音堂があり、石造の西国三十三所観音像を安置します。嘉永3年(1850)に当寺再興に尽くした妙縁尼によるものです。堂の傍らには文化8年(1811)の西国三十三所観音碑が立ち、台石に巡拝者の名が刻まれ、観音信仰の跡が窺われます。
本堂の前方には小堂や石仏、また戦没者の墓碑が並びます。元禄15年(1702)の青面金剛童子塔には「施主御馬村」と刻まれ、今日に続く当寺庚申講につながるかに思われます。
年代の刻まれない地蔵尊の台座には「左ごゆ右よしだ」と見え、近くの路傍にあった辻地蔵と知られます。なお小堂には不動尊と鯖弘法が祀られています。

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長沢松平氏9代目の康直が迎えた幼少の養子直信は病弱で、養父とその父が没した後、家督を継いだものの出仕することなく、御馬村に閑居して仏門に入り、その傍ら子弟を教え貞享五年(1688)八八歳で当寺に没しました。
直信は三休と号し市郎右衛門を称しましたが、その子昌興が家の再興を図り、享保7年(1722)碧海郡中根村に領地を得、後に故地の沢村に復し200石を領しました。

こうした縁で、三休(戒名、威光院殿魯軒三休居士)とその室の昌寿院殿、また子息竹之助などの墓碑4基が、本堂裏手にあります。なお過去帳に松平家ゆかりの13名が記され、家臣として伊藤正栄と平松弥兵衛が記されます。弥兵衛は、可然と号し、郷土研究の面で渡辺富秋などを導いた識者で、享保2年(1717)没しました。
当寺に伝わる「当邑略記録」に文化10(1813)の序があり、慶長以来の領主や事件が録されます。文化11年5月の舞台焼失と翌月の再建は引馬神社境内の芝居小屋のことと思われるなど、この記録によってのみ知られることも多く、筆者不明ながら貴重なものです。

郷土史研究の先駆
三河の地誌としては元禄9年(1696)成立の杉江常翁『伊良湖島名所記』が古く、三河全般にわたる『三河雀』は宝永4年(1707)の花翁の自序を有し、類書中唯一の刊本。享保8年(1723)渡辺富秋自序の『統叢考』は、『引馬地理誌』と改題されたように御馬村の地誌で、杉江常翁の訂補になり、平松可然・波多野忠重の助力も得ました。

       みと歴史散歩❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より