小規模事業者の活躍を応援します。

御津町商工会

① 引馬神社  (笹踊りと七福神踊り)

146.jpg須佐之男命を祭神とする当社は、一条天皇の正暦年中(990~)に京都の八坂神社から勧請されたと伝えます。その後観応元年(1350)に駿河守護職の今川五郎国範(範国とも)が社殿を造営し、それから約百年後に御馬城主の細川治部大輔政信が再興したとされます。
天文年間(1532~)当地方に勢力を張った今川義元による5町8反歩の寄進状の写しが知られ、また義元は部下に社殿と鳥居を修復させたといい、当社と今川氏は深い縁でした。
永禄5年(1562)に長沢城主松平康忠が御馬を領有するに及んで、社領は一度失われましたが、慶長六年(1601)伊奈備前守から社領5石の黒印状が下されました。
こうした由緒ある当社は、戦前には郷社の社格を有しましたが、社号の引馬神社は明治初年にそれまでの牛頭天王社を改めたものです。明治新政府の神仏分離政策によって、本来仏教語である牛頭の称を廃し、古代にこの一帯を引馬野と呼んだという伝承に因んで新たに社号としたのです。最古の棟札は寛永21年(1644)12月ので、天明4年(1784)までは「牛頭天王五社宮」と称したようです。
今は社地の西を走る国道に面して鳥居が立ちますが、社標の立つ北側の鳥居からが元の参道です。その手前には天12年(1840)の銘がある常夜燈や例祭のお旅所があります。

笹踊り・七福神踊り(町指定無形民俗文化財)147-1.jpg
現在8月の第1土・日に行われる当社の例祭の本祭りに、神輿が西御馬の八幡社に渡御するのに随って、社前など一定の場所で笹踊りと七福神踊りが奉納されます。
笹踊りは、もとは八幡社に奉仕する西部落に伝承されましたが、東西の部落融和のために戦後両部落が合同して2つの踊りを演じるょうになりました。
鎌倉時代から伝わるとされる笹踊りは、市女笠に錦織りの陣羽織と紫綸子の裁着袴を着用し、胸に太鼓を括りつけた3人(大太鼓1人、小太鼓2人)が、囃子方の歌に合わせて踊りますが、笛の間奏もあります。
踊りは3曲あって、ど147-2.jpgれも豊川流域の笹踊りの中において躍動感が際立つようです。
七福神踊りは、それぞれの面と衣裳を着け、ただし伴奏用の太鼓を付けた引き車の祠に祀られっる弁財天に代って白狐が、陽物を象った朱塗りの棒を手に先導役となり、杖、鈴、綱を使い分けた3つの踊りをします。
三谷・形原方面の七福神踊りを取り入れ独自の型としたと言われ、天保七年(1836)に衣裳を新調した記録が残っています。

【鉾】引馬神社の例祭に、八幡社から還幸の神輿を火の見櫓下に迎えて、その先導となるのが2本の鉾で、その先端の飾りから「トーフ」と「剣」と呼び習わしています。孟宗竹を平年は12節、閏年は13節の長さに切り先端に幣、その下に五穀豊穣、天下泰平などと四面に書いた箱形を通したのがトーフで、先端に三ツ手の剣をつけ一流の白旗を吊るのが剣です。
いずれも飾り物の下から張られる四本の支え綱と、竹の根元を巻く荒縄の先端四本とを持ち、八人で曳いて行きます。
トーフは何度も倒され、曳き手も道の傍らの水田に倒れこみ泥まみれになります。30m足らずを一時間以上かけて進み、そこからは肩に担ぎ千鳥足で行きつ戻りつして、境内で再び鉾を立て剣と交錯しながら拝殿前に進み、所定の支柱にそれぞれを括り止めて終わりとなります。
トーフが祭礼前日に定位置に立てられるのに対し、剣は宵祭りに社前から奉仕者によってトーフの並びに移される儀式があり、当日の巡行も剣は倒してはならぬとされています。
ともかく近辺に類のない神事といえます。

鉾竹の旧慣と忘れられた鯛車
鉾の竹は、昭和10年ころまで、西方の旧家鈴木家からいただく慣例でした。その由来は定かでないですが、同家の竹薮がなくなるまで続いたのです。
雑誌「郷士趣味」の大正77年1月号によると、七福神の後に、鯛魚の形を作り、車に載せて子供らが曳いて行くと紹介されていますが、今は知る人もありません。

算額(県指定文化財)
当地の和算家渡辺富秋の三三回忌追善として、寛政9年(1797)にその子統虎や門人により献納されました。3面の、横180㎝前後、縦30㎝ほどの杉板に、30題と解法が多色で書かれています。
額面には島良佐による奉額の由来と、三河・遠江の当時著名な和算家22名の住所・姓名・師弟関係などが墨書されています。
間題の質も高く、形状の特異さ、額面の保存の良さとともに貴重な作例とされ、和算研究者によって海外にも紹介されています。
なお、この算額と同内容を含む写本『算術問答集』が豊橋市中央図書館にあります。

鰐口(町指定文化財)
社殿や仏殿の軒先に吊り下げられ、参詣者がその緒を持って打ち鳴らす鰐口は、中世の物語などにもよく描かれていますが、当社に伝わる最古の作例が貞享4年(1687)のもので、次の銘文が刻まれています。
奉掛牛頭天王御宝前三州宝飯郡御馬郷
  願主松平市良右衛門林内
  子時貞享四丁卯年九月吉祥日敬白
願主の市良右衛門は、海元寺に墓碑のある松平三休の通称でこの翌年に没しました。
当社にはなお嘉永7年(1854)渡辺氏奉納の額装黒船図や石川信栄詠の襷歌の額、また槍・書画などが蔵されています。
黒船図はたまたま出府の折に実見した由が画面に記され、当時の驚きをさながらに伝えるものです。
石川信栄は弟の信手とともに羽田野敬雄に歌を学び、三河で編まれた歌集にも入集しています。持統上皇行在所跡の記念碑にもその名が見えますが、奉納の襷歌は縦横斜めに、上下から読んで一首の歌となる、八重襷歌ともいう技巧を極めた詠み方をしたものです。
信栄、信尹はむろん雅名で、維新後の村政に功労あった彦七、清十郎にほかなりません。
境内には、火の櫓近くの辻から移れた道標(「右みなと/左よし田/道)や歌人斎藤茂吉の筆蹟で「引馬野・阿礼乃崎」と刻む碑があります。また「三河アララギ」を主宰した御津磯夫による万葉歌碑があり、当所をその故地としています。
この地に万葉集にいう引馬野・安礼乃崎を求める説は、御馬湊の船問屋渡辺富秋に始まり、近代の研究者に引き継がれています。斎藤茂吉も昭和16年秋に御津磯夫の案内でこの伝承の地を訪れ、宮路山にも登っています。

       みと歴史散歩❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より