この城は応安2年(1369)に将軍義満の命を受けて、執事(後に管領)の細川頼之が弟の
頼有に築城させ、これを守らせたと伝えます。
永享・享徳(1429~1455)の頃は細川政信が在城し、ついで外戚の酒部時重がこれを堅めていたのが、文明年中(1469~)の争乱で今川義忠に攻め落とされました。
その後、城は一時荒廃しましたが、寛永年間(1624)に長沢松平氏の庶流松平浄感の一族が在城、しかし、その主君松平定綱の桑名転封にともi)ない、正保年中(1644~)に退去し、やがて民地となり、ついに宝永元年(1704)には士塁を崩し堀を埋めて耕地にされたといいます。明治時代にはその一角に御馬村の隔離病舎が建てられ、それが宝飯病院に移された後は、部落の焼香場として昭和10年代まで利用されたという転変を重ねました。
大正5年ころ、大島徳太郎(号、君川)の筆になる「御馬城址」の碑が建てられ、見上げるほどのどっしりしたものでしたが、戦後の土地改良工事の際に誤って破壊され、現在の碑はその後の再建によるものです。
規模が小さくなり位置もいくらか移動していますが、数百年にわたるこの城の来し方を思いやるよすがとはなりましょう。町内にいくつもない中世の史跡として、遺物はなくとも重視されてよいと思われます。
みと歴史散歩:❹湊と引馬の里 平成12年2月発行より