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御津町商工会

⑥豊川稲荷・妙厳寺

66-1.jpg境内でつく除夜の鐘の音と同時に、妙厳寺の総門が開かれる。開門を特ちわびていた初詣の人たちの集団が、少しずつ動き始め、今まで静かだった土産物店も急に活気づく。これは、毎年元旦に見られる豊川稲荷の門前の風景で、正月の三日間には約100万人が初詣に訪れる。
豊川稲荷は、曹洞宗豊川閣妙厳寺の守護神である吒枳尼真天を祀ったもので、嘉吉元(1441)年に始まるという。寺伝によれば、曹洞宗を開いた道元の弟子である寒巌禅師が、宋(中国)からの帰国の途中で白い狐にまたがった女神のような吒枳尼真天に出会い感激し、帰国後、その像を作って祀った。それから200年後の嘉吉元年、三明寺の北の円福原とよばれた地に妙厳寺を開いた東海義易は、寒巌禅師より伝えられてきた千手観世音菩薩像を本尊とし、吒枳尼真天像を境内の守護神として祀った。これが豊川稲荷の始まりという。
現代につながる豊川稲荷信仰が盛んになるのは、江戸時代後期の19世紀初め頃のことである。その頃には、現存する旧本殿拝殿(現奥の院拝殿)、旧奥の院拝殿(現景雲門)、法堂などの建物が建立され、当時の豊川稲荷信仰の盛況を反映し、境内建物の整備が進められた。また門前町も、参詣者の増加につれて酒店・料理店が軒をならべるようになり、宿泊客を相手とする旅籠屋を営む者も現れ、その繁盛ぶりは東海道の御油・赤坂·吉田の各宿場にも影響を及ぼすほどであった。豊川稲荷信仰の隆盛は江戸にも及び、豊川稲荷を含め妙厳寺周辺の領主であった大岡家は、文政11(1828)年に豊川稲荷を江戸屋敷に勧請した。これは現在の東京赤坂豊川稲荷別院である。明治30(1897)年には、吉田(現豊橋).豊川駅間の豊川鉄道(現在の飯田線)が開通し、豊橋方面からの交通の便が良くなり、昭和44(1969)年の東名高速道路の全線開通は、豊川稲67-1.jpg荷の観光地化を促進していった。
奥の院方面への参道に立ち並ぶ千本のぼりを見ると、全国各地から参拝者があることが分かり、また境内奥の狐塚には、祈願成就のお礼として奉納された狐の石造物が多数安置されており、今も昔も変わらぬ庶民の信仰心の篤さをうかがうことができる。

豊川稲荷・妙厳寺の社寺建築
現在境内にある建物は、豊川稲荷信仰の隆盛を背景に、江戸時代末から戦前頃にかけて建立されたものが多い。これらは、近世・近代の社寺建築の特徴をよく伝えるものである。

本殿
本殿の建立は、妙厳寺第29世黙童和尚の発願により、明治27(1895)年に着手され、68-1.jpg30年の年月を費やして昭和5(1930)年に完成した。妻入二重屋根で桟瓦葺、三方に向拝(廂)を設けた総ケヤキ造の建物で、その設計には宮内省内匠寮の技師があたった。柱は直径60㎝から1mまでのものが72本使用されており、特に直材無節の5本の柱は、東北地方や各地の御料林から2か年の材木探しの末、見つけだされたものである。今後、れだけ立派な総ケヤキ造の木造建築を建てるこは、用材不足から不可能といわれる。

法堂
千手観世音菩薩像を本尊として安置する妙厳寺本堂は、法堂ともよばれ、天保年間(1830~1844年)に建立された。入母屋造二重屋根、桟瓦葺で、近世曹洞宗本堂の本格的な平面形式を有する建物である。重層屋根は江戸時代後期の傾向を示すものである。

奥の院拝殿
文化11(1814)年に建立された旧本殿拝殿を、昭和5(1930)年に移築したもので、彫刻は立川和四郎作とされる。桁行3間、梁間2間で、屋根は入母屋造、桟瓦葺であり、正面に向拝(廂)を設けている。

総門
門前通りの正面に、明治17(1884)年に建立された総門がある。四脚門とよばれる68-4.jpg形式の門で、屋根は入母屋造、銅板葺である。扉は厚さ15㎝のケヤキの一枚板で、如鱗(うろこ)のような木目が大変美しい。また柱上には、立川流の十六羅漠の彫刻が飾られている。

立川流彫刻
豊川稲荷の江戸時代の建物には、彫刻が施されたものが多い。総門を入ったすぐ右側の鎮守堂に祀られている厨子や、奥の院参道にある景雲門(旧奥の院拝殿)、奥の院拝殿(旧本殿拝殿)などの彫刻は、社寺建築史上に名を残す2代立川和四郎富昌が心血を注いで完成させた作品である。
立川流彫刻は、将軍秀忠や家光の廟などを建造した宮大工の流れをくむ一派で、江戸本所立川にあったので立川流という。富昌の父・立川和四郎富棟は、若い頃に江戸に出て立川流彫刻を学び、故郷の信州諏訪に帰って各地の社寺の彫刻に従事した。そして他流派との競争を制して、諏訪立川流は発展をとげ、父の後を継いだ富昌は、立川流彫刻を芸術の香り高い彫刻へと押し上げていった。豊川稲荷の彫刻のほとんどは、2代和四郎富昌と弟子の宮坂常蔵の作によるもので、その圧巻は、奥の院拝殿の上り龍と下り龍である。これらは、自然木の大きな曲がりを龍のうねりに仕立てたもので、見事な作品である。
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豊川閣寺宝館
国指定重要文化財の木造地蔵菩薩立像をはじめ、豊川稲荷・妙厳寺に伝わる、中世から近代の日本絵画・彫刻・刀剣などが展示されている。

木造地蔵菩薩立像【国指定重要文化財】
同じ厨子内に並んで安置され、右手の持ち物の有無を除いてほぼ同じ姿である。また像高も77㎝余りとほほ同一である。向かって左の像は鎌倉時代後期の作、右の像は鎌倉時代中期から後期の作と推定される。製作時期にさほどの違いはないが、おのおの別作とみるべきである。伝来は明らかでないが、当地方に残される地蔵菩薩立像の佳作として貴重である。

平八郎稲荷 【むかしばなし】
むかし、東海義易が妙厳寺を開いたころ、1人の老人がどこからともなくやって来て、「お手伝いをさせてください」と言って、寺に住みつきました。この老人は、自分のことを平八郎といっていました。
老人は、―つの小さな釜を持っているだけなのに、ある時は飯を炊き、ある時はおかずを煮、またある時には湯茶をわかしました。いくら参詣者が来ようとも不思議に―つの釜ですべてを間に合わせたので、この神通力に驚かないものはいませんでした。そこで、ある人が「あなたは小さな1つの釜で、何の術によって多くの人の賄いができるのか」と尋ねてみました。すると、平八郎はにつこりと笑って「わたしには、301人の仲間がいるので、できないことはない」と答えました。義易が亡くなると、老人はどこかへ姿を消してしまい釜だけが残りました。
この釜を平八釜といい、豊川稲荷を別名平八郎稲荷ともいいます。  (『豊川稲荷』より)

    豊川の歴史散歩豊川の町から牛久保の町へ 平成25年10月発行より