旧豊川海軍工廠と豊橋駅を結ぶ南大通(県道400号)を、名鉄諏訪町駅から南に1.1㎞進むと、南大通4丁目の交差点に出る。ここを左にまがって、交番の前を通り過ぎたところに牧野成定公廟がある。ここは、もと三本松とよばれ、かつて光輝院の境内であったが、道路が開かれて寺域が縮小され、町の中にとり残されたような格好となっている。
牧野成定公廟【市指定史跡】
牧野成定は、反今川方となった牛久保城主の保成の後を継いで、弘治2(1556)年頃に牧野家の家督を継ぐことを今川氏より認められた。成定は、その地位が相当に不安定であったようで、今川氏より西条(西尾)城在番を命じられる境遇であった。その後、永禄9(1566)年には今川を離れ家康に臣従するようになるが、成定のこの決断が、その後の牧野氏の運命を方向づけることとなった。病身であった成定は、同年に42歳で没し、光輝院の境内に葬られた。廟の碑は、貞享元(1684)年に大垣城主戸田采女正氏信に嫁いだ成定の曽孫が建てたものである。墓石は、砂岩で岩質がもろく、表面が摩滅していて碑銘が読みにくい。現在は鞘堂に覆われているが、これは昭和50(1975)年11月、牧野公奉賛会により建てられたものである。また、廟前にある石燈籠2基は、子孫の長岡藩主牧野忠精が、寛政8(1796)年に寄進したものである。
光輝院
南大通4丁目交差点の1つ南の信号交差点(南大通三丁目)を左へまがり、100mほど行ったところに成定の菩提寺の光輝院がある。光輝院は浄土宗寺院で、もと瀬木城近くの法月野とよばれた場所にあったが、牧野民部丞成勝が牛久保城築城の際、現在地に移転したと伝えている。永禄9(1566)年成定の墓が築かわたのを機に、その戒名より光輝庵と称するようになった。
成定の子孫は、その後、上州(群馬県)大胡、越後(新潟県)長峯を経て、越後長岡に移封され、7万4千石を領するようになった。歴代の城主は、神を敬い、先祖をあがめる気持ちが大変強く、熊野神社(下長山町)・八幡社(牛久保町)・光輝院などに土地やお金の寄進をしている。光輝院に残る「牧野家御先祖御供養留書」には、城主が東海道通行の際は、必ず立ち寄って廟に参拝されたことや、御茶湯料の寄付、3年ごとの家臣の御代拝や、建物の修築に、多額の寄進をしたことなどの記録が残されている。
豊川の歴史散歩:❷豊川の町から牛久保の町へ 平成25年10月発行より