熊野神社を出て東へ500m行くと、JR牛久保駅がある。すぐ隣の踏切を渡ると、南東側に「牛久保城趾」の碑がある。牛久保城は、享禄2(1529)年に一色城主牧野成勝が、今橋城主信成の命をうけて築城したと伝えられる。当時牧野家は今川方で、築城の年には松平清康が今橋城を攻め落とし信成が戦死したというが、その時代背景を考えると、牛久保城の築城は松平勢の東三河侵攻への備えと考えられる。牛久保牧野家の家督は、天文5(1536)年頃までは成勝であったようで、その後保成に代わる。東の今川家・西の松平家の狭間で揺れる牧野家の中で、保成は弘治中(1555~1558年)に反今川方につき追放され、その後の家督は今川義元により成定とされた。しかし、牛久保城には今川家の城代が置かれたと考えられ、その地位は相当に不安定であったようである。永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、同4年には反今川方による牛久保城攻めが行われ、同5年には家康の軍勢が牛久保周辺に直接出撃するようになる。これは牛久保城が本坂通と伊那街道を押さえる重要拠点であったからであり、牧野家をめぐる状況は緊迫の度を深めることとなる。そのような中、成定は永禄9(1566)年には家康に従う決断を行い、牛久保城は松平(徳川)氏の支配下となり、天正18(1590)年には池田照政の家臣荒尾平左衛門が城主となる。そして元禄13(1700)年には廃城となり、跡形もなく取り壊されてしまった。
牛久保城の姿
牛久保城は台地の端につくられた城で、南の沖積低地を一望のもとに見おろし、北には二重の堀をめぐらしていた。今の牛久保駅あたりが本丸の西端で、大手門が駅前あたりにあったと推定される。城をとり囲むように侍小路、与力屋敷、その北に町人の町通り、周辺部に寺院などを配置し敵に備えていた。また、城へ向かって直線に入る道は一本もなく、必ず曲尺手(直角に曲げられた道)になっている。このような町は、近世城下町の先がけをなすものであるが、残念なことに、当時の城の姿をとどめる遺構は何も残っていない。ただ、牛久保駅周辺の「城跡」「大手」「城下」等の地名から、わずかに昔をしのぶことができる。
牧野様と牛窪 【むかしばなし】
今から500年余り前の話です。牧野城の殿様、牧野成時(古白)は、一色城に移り住むため、おともの者たちを従えて、天王社の手洗い、金色清水の窪溜りの近くにさしかかりました。すると、清水のかたわらに野飼いの牛が寝そべっていて、往来の人々は皆、その牛をよけて通っていました。
ところが、殿様が通りかかると、寝ていた牛がゆっくりと起き上がり、道をあけて殿様を通しました。案内のためお伴をしていた長山郷の庄屋石黒九郎兵衛は、「これは、めでたいことの前兆です。世のことわざのように、国主になられること疑いありません。」と申し上げ、殿様はことの外喜び一色城へ入りました。この時、一・とこさぶの地は「牛窪」と改められ、その後、幾久しく栄えるようにと、現在の「牛久保」の地名となりました。
豊川の歴史散歩:❷豊川の町から牛久保の町へ 平成25年10月発行より