開運橋をあとに陸上自衛隊豊川駐屯地を右に見ながら西ヘ1.3㎞行くと、日本車輌製造豊川製作所の正門がある。この付近一帯には広大な工場群が広がっているが、ここはかつて東洋一の兵器工場と称された豊川海軍工廠が存在した場所である。
海軍工廠とは、日本海軍直営の軍需工場のことで、太平洋戦争終結時までに全国の14箇所に設けられていた。豊川海軍工廠は、昭和14(1939)年12月15日に艦船や航空機で使用する機銃及びその弾丸の生産工場として開庁し、その後の戦局の進展に伴い、双眼銚や測距儀をはじめとする光学兵器部門などが増設された。工廠の敷地は、工場部分だけで186ha(外周6.3㎞)あり、碁盤の目のように区切られた区画の中には、整然と工場や諸施設が並び、その建設には、当時の金額で約8億円の費用を要したといわれている。
工廠の周囲には、エ廠神社や官舎・エ員寄宿舎・海軍共済病院・エ員養成所・寄宿舎など関連する施設が次々と建設されていき、まさにエ廠の街へと変貌していった。エ廠の発展やこれに伴う人口の増加は、町村を合併させ新市を発足させる機運を生み出し、昭和18(1943)年6月1日に旧宝飯郡豊川町・牛久保町・国府町・八幡村が合併し、豊川市が誕生することとなった。
工廠では、最盛期に五万人以上の人々が働いていたが、戦局が激しくなると青年男子は続々と戦地へ召され、内地における労働人口の不足は深刻化し、そのため昭和18(1943)年以降には、未婚女性の女子挺身隊員や学徒の動員が行われるようになる。昭和20(1945)年3月にはわずか12から13歳の国民学校高等科児童までもが動員され、彼らが工廠での生産を支える存在となっていった。
昭和19(1944)年秋以降、米軍の本士空襲が本格化すると工場の疎開が始められたが、エ廠全体からみればその疎開率はわずかであったようで、昭和20年5月19日には初の被弾を受け、30余人が犠牲となり、空襲の脅威が現実のものとなってきた。そして終戦間際の8月7日、豊川海軍工廠は米軍のB29爆撃機124機からなる空襲を受け、わずか30分足らずの間に3,256発の500ポンド(250㎏)爆弾が投下され、工場は壊滅的な被害を受け、2,500人以上の方々が犠牲となった。
そして焼け跡の]片付けもままならない8月15日に終戦を迎え、兵器工場としての歴史を終えることとなった。
豊川海軍工廠の残存遺構
戦後、エ廠の跡地は、陸上自衛隊豊川駐屯地、工場群、大学の研究施設などに利用されてきたが、その中には空襲を免れた建物を再利用したものもあり、現在でもそのいくつかを見ることができる。特に名古屋大学豊川キャンパス内(名古屋大学太陽地球環境研究所豊川分室構内)には、当時の建物・防空壕跡や爆弾の着弾穴などが、当時の環境と大きく変わらずに広範囲に残っており、市街地に残る戦争遣跡としては稀なものである。また、陸上自衛隊豊川駐屯地や民間工場内にも当時の建物を再利用したものが、いくつか現存している。
平和の像
豊川市野球場と豊川郵便局の間、エ廠神社跡地にある「平和の像」は、八七会によって昭和40(1965)年に建立されたものである。二度と戦争を起こさない平和のシンボルとして、矩辛成氏(金沢美術工芸大学教授)により制作された。
桜トンネル
豊川市野球場や豊川市陸上競技場がある豊川公園一帯には、数多くの桜があり、桜トンネルともよばれ、春先には花見の名所として多くの人が訪れる。ここの桜は、エ廠によって昭和16(1941)年に植樹されたのが始まりでその当時のものがまだいくつか見られる。
ケヤキ並木
豊川市体育館と豊川市野球場の間にあるケヤキ並木は、昭和14(1939)年に豊川海軍工廠の開庁記念として、正門前の通りに植樹されたのが始まりである。付近一帯は、昭和20(1945)年8月7日の空襲で大きな被害を受けた場所であるが、空襲に耐え樹勢盛んな姿を見せるケヤキの姿は、戦後における豊川市の復興のシンボルともいえるのではないだろうか。
豊川の歴史散歩:❷豊川の町から牛久保の町へ 平成25年10月発行より
開園時間 午前9時~午後5時
休園日 火曜日(祝日の場合は開園)、年末年始(12月29日~1月3日)
入園料 無料
電話・FAX 0533-95-3069(豊川市平和交流館)
場 所 愛知県豊川市穂ノ原三丁目13-2