長谷寺を出て西へ300m進んで、南大通二丁目交差点の少し南を東側に入ったところに、もと黄檗宗寺院の善光庵がある。この庵の現在の建物は、昭和48(1973)年に建てられたもので、棟続きに稲市場公民館がある。昔の本堂は、寄棟造桁行5間・梁間5間・本瓦葺で、南向き(現在は西向き)に建てられていたという。
青銅造弥勒仏頭 【市指定有形文化財】(見学できません)
堂に入った右手壇上に、青銅造の弥勒菩薩の仏頭が安置されている。頭部の高さが158㎝もある巨像である。「善光庵覚書」(牛窪史蹟研究会編)によれば、正徳3(1713)年に善光庵第2代智戒和尚の勧進によって作られたものであるという。古老の話ぃよれば、この仏頭には宝冠があったというが、明治時代に盗難にあって失われたという。
観音像群(見学できません)
善光庵の建物内には、正面に聖観音が安置された厨子があり、その両側に63体の観音像が並んでいる。製作時期は江戸時代中期を遡らないと考えられ、金泥の輝きをよく残している。像の姿はいずれも均整がとれており、その光景は実に壮観である。
けさがけ地蔵 【むかしばなし】
むかし、牛久保に渡辺太郎左衛門という武士がいました。太郎左衛門は信心深い人で、本野が原に石地蔵をたて、朝夕おまいりをしていました。
ある日、となり村へ用事があって出かけた太郎左衛門が石地蔵の前にさしかかった時、突然十数人の野武士の群れにおそわれました。太郎左衛門がもはやこれまでと覚悟をきめた時、石地蔵の立っている方向から、見馴れない若武者が現われて、自らも傷つきながら、野武士の群れを追い払ってくれました。命拾いをした太郎左衛門が、ふと我にかえると、すでに、若武者の姿はありませんでした。翌朝、石地蔵がけさがけに切られ、べっとりと血がついているのを見た太郎左衛門は、自分を助けてくれた若武者が、地蔵の化身であることを知りました。その地蔵と伝わる上半身を欠く石地蔵が、善光庵の敷地内にあります。 (『牛窪記』より)
豊川の歴史散歩:❷豊川の町から牛久保の町へ 平成25年10月発行より