玉林寺をあとに、県道499号を南西に800m進むと、松原用水にかかる谷川橋に着く。
松原用水は、豊川の西岸を潤す農業用水で、正式には牟呂松原用水松原幹線水路といい、独立行政法人水資源機構豊川用水総合事業部が管理している。豊橋市賀茂町の照山分水工で取水し、豊川をサイホンで潜って対岸の豊津町に出て下流へ流れる。そして行明町で豊川放水路を潜り、豊橋市大村町で豊川に合流する。
松原用水は、永禄10(1567)年に、吉田城主の酒井忠次が八名郡橋尾村(橋尾町)の豊川で堰を造ったのが始まりと伝えられる。元禄4(1691)年の大規模な洪水により豊川の流路が変わってしまったため、元禄6(1693)年には堰を八名郡日下部村(豊津町)に移築したという。宝暦年間(1751~1764)には、用水の下流住民が干ばつをぐために、水路の拡幅を吉田藩に願い出て許されが、上流住民の反対により工事が進められないほど、江戸時代を通じて用水の上・下流住民の間で水争いがおこった。この解決には、取水する堰を上流に移し、用水への水の流入を安定させることが必要で、明治2(1869)年には堰を宝飯郡松原村(松原町)移す工事が行われた。松原用水の名称は、取水口が松原村になったことに由来するものである。牟呂用水の照山分水工より取水するようになったのは、昭和42(1967)年のことである。
松原用水の人柱 【むかしばなし】
むかし、麻生田・牧野などの地域に、松原用水が造られた時の話です。
ある年、毎日のひでりに困り果てた大村(豊橋市大村町)の人々が、豊川の川上から溝を掘り、田に水を引くことを決め、お役所に願い出てやっと許してもらいました。やがて、橋尾で豊川をせき止め、麻生田・谷川などを通り、大村まで溝ができ上がりました。
ところが用水は完成したものの、せっかくできた堰は大雨のたびに何度も壊れてしまいました。いろいろ相談の結果、大村の8人の世話人が人柱となって堰を守ることとなりました。そして立派にでき上がった堰のまん中に、8人が生きたまま埋められました。
はじめて通水する日の夕方、流れていく水の先を8つの人魂が並んで行き、大村の田まで来たとき、パッと消えたということです。 (『とよかわのむかしばなし』より)
豊川の歴史散歩:❶豊川沿いを行く 平成25年10月発行より