瀕木城跡を出て南に進み、瀬木団地の住宅街を抜け霞堤上の道を行くと、豊川放水路の分流堰がある。
豊川流域は、度重なる水害に悩まされてきた地域であったが、この状況を打開しようと、大正時代以降に流域住民らによる洪水対策を求める運動が本格化し、大正15(1926)年には豊川治水期成同盟会が結成され、国など各方面への働きかけが行われた。昭和初期の不況の中、洪水対策のための改修工事はすぐには行われなかったが、昭和10年代に入り、国から放水路の建設という具体的な計画案が示されることとなった。これは、昭和14(1939)年に開庁した豊川海軍工廠の生産活動などが、豊川の洪水によって支障をきたさないようにするためと考えられる。しかし、戦局が悪化したため工事には至らず、戦後の混乱期を経て、昭和29(1954)年に用地買収が完了し、昭和30(1955)年に本格的な工事が開始された。以降、ブルドーザーやタイヤローラーなどの大型機械による工事が進められ、昭和40(1965)年に工事は完了し、豊川放水路の供用が開始された。これにより豊川流域での洪水被害は格段に減少し、温室やハウスを導入した農業生産が進められ、スプレー菊生産などが本格化したほか、露地野菜生産も盛んになり、流域は市内有数の野菜生産地へと発展していった。