西島神社から県道380号に出て、北へ600m行った天王保育園の北西角の交差点を東にまがって、100mほど行くと森の中に花井寺がある。
花井寺は、曹洞宗永平寺派の寺院である。寺伝によれば、平安時代末の久安4(1148)年に、今水寺(新城市)の慶寛法印という僧によって、真言宗寺院として開かれ、竜源院とよばれていた。その後火災により荒廃したが、大永4(1524)年に京都の弁鏡という僧により、曹洞宗寺院として復興され、天文15(1546)年には竜源院から花井寺に改称されたと伝えられる。花井寺には、寺の歴史を物語る多くの文化財が残されており、また、三河国司大江定基に関わる船井・岩井・花井姫の伝説ゆかりの地としても知られている。
木造地蔵菩薩立像【市指定有形文化財】(見学できません)
一木造りで、像高32㎝の小型の地蔵像である。左手に宝珠を持ち、右手は掌を前にして体側に垂れる、いわゆる与願の印の姿である。穏やかな眉や目、小さな口、細い鼻、もの静かな面差しや蓮華座に立ち腰をひねらない直立の姿は、藤原時代(平安時代中・後期)彫刻の特徴をよく残している。
仮名書金剛般若波羅蜜経【市指定有形文化財】(見学できません)
金剛般若波羅蜜経を仮名まじり文に書き下したものである。この経は古くから諸宗で読まれてきたが、特に禅宗では重要な経典とされた。
鎌倉時代には在家(出家せずに仏教を信仰する人)のために、仮名まじり文に書き下されることが行われるようになったという。
ふない姫・いわい姫・はない姫 【むかしばなし】
むかし、豊川の里に長者が住んでいました。その長者には、ふない・いわい・はないという美し姫がいました。3人の姫は、そのころ、都から三河の国を治めるために来た大江定基という役人の妻になることを夢みていました。しかし、父の長者が重い病気になり、姫たちの看病のかいもなくこの世を去ってしまいました。
それからしばらくして、定基は都に帰り、それを伝え聞いた姫たちは世をはかなみ、頭を剃って尼となりました。そして、豊川の岸辺にそれぞれ草ぶきのそまつな家をつくり静かに暮らしたといいます。
今の花井寺は、はない姫の家の跡に建てられた寺といいます。
(『とよかわのむかしばなし』より)
豊川の歴史散歩:❶豊川沿いを行く 平成25年10月発行より