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御津町商工会

⑫当古の渡しと本坂通

38-2.jpgさぬき屋敷公園をあとに、県道380号を南に250m行くと、国道362号と交わる三谷原の信号交差点がある。ここを東にまがり900mほど行くと、左手に当古の町を通る旧道があるのでここを入り、さらに600m進むと、豊川の堤防につきあたる。その辺りがかつて、当古の渡しがあった場所である。

当古の渡し
本坂通が豊川を渡る当古村には、かつて渡船場が設けられていた。当古の渡しがいつ始められたかは定かでないが、江戸時代を通じて渡船業務をしていた中山家(当古橋公園が中山家跡)の史料によれば、浜松城に在城していた徳川家康が、本坂峠を越えて岡崎と行き来していた時に、先祖の者が家康に渡船の役を命じられ始めたという。これが事実だとすれば、家康が浜松城に在城した天正年間(1573~1592年)頃年ま間でさかのぼることとなる。中山家は、江戸初期から当古村の有力者であり、以来幕末に至るまで渡船業務を行ってきた。しかし、この渡船業務の権利を中山家が独占していたことにいて、村の人々の不満も大きく、文化年中(1805~1818年)には中山家と村民との間で、その権利をめぐる争いが起こった。以後、たび重なる争いが行われたが、幕末の安政6(1859)年には、その権利が村に移ることとなった。なお、当古村による渡船は、県営渡船となる大正6(1917)年まで続き、昭和9(1934)年に旧当古橋がかけられると、渡船は廃止された。現在の当古橋は、昭和61年にかけ替えられたものである。

当古の本坂通
江戸時代に東海道の脇往還であった本坂通(姫街道)は、御油の追分で東海道と分かれ、八幡・市田・豊川村などを経て当古に至り、ここで豊川を渡り本坂峠を越えて遠州(静岡県)へと入る。現在、当古町の本坂通は、かつての街道風景は失われているが、歩いてみるとその名残りを感じさせられるところもある。このあたりは、豊川放水路が完成する前はたびたび洪水にあった場所でもあり、土盛りと石垣による一段高い敷地にある家屋は、水害の被害を少なくするための工夫である。

    豊川の歴史散歩豊川沿いを行く 平成25年10月発行より