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御津町商工会

⑧ 『岩畳神社』

103.png当社は字新屋敷90ノ1に鎮座ましまし、寛政9年(1797)に発行された秋里籬島著の「東海道名所図会」のうちで御津神社の項に、神詠として「大島や千世の松原いしだたみくづれ行ともわれは守らん。これは御津山の麓に岩の石畳あり此所に別宮ましますこれを御津ノ神社神詠遊ばし給ひしとある人のかたりき」と出ております。この書は挿絵を豊富に入れて今の旅行案内書のようなものですが、図らずもこのようにして200年も前に当代一流の本に載せられ全国的に紹介宣伝される幸運を担ったわけですが、さて当社の御祭神につきましては神職者の間でも決定的な答はなく、ただ、村荒神といわれてきていることや大恩寺山の南麓中腹にあって泙野村を一望の下に見晴す地点に所在し村を守るに格好の聖地であることなどから個人屋敷の地神や地荒神と同じく村を守る村荒神として奉斎せられたのではなかろうかと生田小平次氏もその説をとっておられます。創立は御津神社の御神詠ということからみれば、1000年以上の古い時代になりますが最古の棟札は享保16年(1731)のもので奉村荒神御葺替として庄屋(不明)組頭助左衛門市右衛門大工長兵衛の名が出ています。これは村中で管理したことを表わしています。むかし、弥左衛門九左衛門の2人が交代で祭事をつとめてきたそうですが、2人がいなくなると祭事も中絶されてしまいましたが寛延2年(1749)の祭礼帳表紙裏の記によればその年、荒神様と稲荷様が立腹されて西組の七之助の子息に取り憑き、ひどく苦しめられましたが七之助の子息の口を借りて稲荷様がいわれるには、前はお祭りもしてくれ食物も供えてくれたが「今は捨置きと相成候段誠に残念に罷暮し申候としゃべり申候」ということでこれを聞いた村人はびっくりして、この年からお祭りをするようになったことが書かれてあり年々盛んにお祭りが行われ今日に及んでいます。翌3年の記録にはうるし米2升106文小豆3合13文吉田紙1状24文半紙6文神酒2升116文お初尾50文〆317文(計合わず)ちゃ5分としてあります参拝者には餅を施し酒と茶飯をふるまったようです。年行事として角次郎甚助喜八郎四郎右衛門、六郎右衛門弥左衛門伊之助与太夫六右衛門金左衛門次郎助の名がみえます。(宝暦8年1758)

      広報みと❻文化財(神社 昭和57年2月15日号より