当社は、赤根字仲田1に鎮座なされます。御祭神は萩原左衛門尉芳信喞ですが、御相殿に素盞嗚命をお祀りしてあります。
伝説によりますと藤原鎌足38代の末孫で備後国萩原里に住んだ萩原備後守道前の250年位あとの子孫に当り筑後国春日山城28万石の城主でありましたが、どんな事情でしょうか応仁の乱(1467)のときこちらへ落ち延びて来まして、御堂山の僧徒を討ち従がえ丹野、山神、大塚、赤根を領有し御堂山の山頂に砦を築き、この僧徒に鎧を着用させて城を守らせておりましたが1日敵来襲の報を得て、山を下って迎来するのが上策であるとして赤根まで来たところ部下の叛逆にあい、備後林において馬上に自刃して果てました。文明2年(1470)7月6日のことでした。遺児四郎と里丸は四歳と2歳でしたが四郎は赤根の今泉助右衛門の家にかくまわれその養子となり名を四郎左衛門と改めました。大永2年(1522)四郎の子助右衛門は芳信喞を祭神として1社を創建したということです。「神社を中心としたる宝飯郡史」で太田亮氏はこれを「徴証に乏し」といい恐らく当社は古名社であって多分萩原氏は崇敬者であったのを後の人が祭神と誤り伝えたものかと述べています。ともかく話はかわりますが、現在金野の倉橋千一家には萩原備後守道前の位牌が祭られており、過去帳にはその夫婦の戒名が明記されています。同家に伝わる話では丹野城落城の後、家来の1人が金割へ落ちてきて百姓になりました。これが深沢九一氏の先祖で、また、遺児の一人が倉橋家を頼って来て百姓をする身になったということですが、彼是総合すれば倉橋家は庄屋をつとめる有力者であり、家来の深沢氏も近くに目を光らせともどもに秘かに主家の血統を守ってきたのではなかろうかと思います。また、遺児の1人が萩の竜源寺僧となり萩原寺を創立したとも伝えられます。このようなことから当社の祭礼には毎年深沢、倉橋両氏が招かれ2人は酒2升を献じて参拝するのを例とし芝居の桟敷などは席が用意してあったり、2人が行かなければお祭りは始めることができぬほどの権威があったそうですが、それは明治までのことでその仕来りは今は廃されているとのことです。