天そゝる佐脇の森の小高きはやがてぞ神の御影とぞ聞く。 源義照
もと郷社の社格でしたが、ご祭神は伊弉冉尊、速玉男命、事解男命のお三方です。平安の末ごろ熊野地方より熊野の神々を奉じた人々が西三河に入りその神威を宣伝して歩きのち、これらの人のうち東三河に入った者はこの下佐脇を根拠地として熊野の神を四方に宣伝しその勢力を拡張して渥美地方に及びました。そして下佐脇に定着した榎本、宇井、生田、鈴木の4氏を佐脇の4姓といいます。従って下佐脇は紀州の熊野三山とはおのずから支配関係ができていたことと思います。宝飯郡誌によれば、むかし下佐脇村は熊野本宮に初穂米を献ずるのを例としていましたが、紀州から初穂米をとりにくる人数が年々殖えてきて、その上取立られる米の量も多くなったので村民も我慢しきれず遂に70余人の山伏を討殺して村外れの田などに埋葬したのですが、のちにこの塚にふれた者が大病にかかるので宝永5年(1708)から宝暦4年(1757)まで約50年間かけて銭を貯め、この金で全部の塚を発掘し長松寺に集めて改葬しその上へ観音の石像を安置してからこの憂いは除かれたという伝承があります。
戦国時代は領主奥平九八郎の崇敬あつく天文6年(1537)にご宝殿を建てた棟札が残されています。それには禰宜生田彦三郎とあり現在の生田氏は古くから神官をつとめられたことが分ります。熊野三山に擬して下佐脇の本社を本宮に、宇野先にあった東光寺を那智に、羽島にあった冨士社を新宮にあてて3山になぞらえました。当社本当の祭日は旧9月15日であります。また熊野神のお使いは鳥です。当地は佐脇氏に所縁の地として多くの人が来訪しますが去る昭和35年に、三重県一身田の佐脇軍治郎氏が系図を携えて当社に参詣し満足して帰られたことを思い出します。
持統上皇の行在所にあった御所宮は境内に移されましたが永宝5年(1677)の建築でなかなか立派なものです。
広報みと:❻文化財(神社) 昭和56年8月15日号より