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御津町商工会

⑭ 『秋葉神社』

109.png豊沢字大沢44・45の2に鎮座せられ、御祭神は迦具土神です。この神様は火の神でありまして火之夜芸速男神とも、また火彦霊神とも申上げます。伊弉冉尊がこの火の神をお生みになったとき産道に火傷をうけられ、病臥の身となりやがてこれが因で亡くなられ出雲の国と伯耆の国との境にある比婆山に葬られたといわれます。神々のことは不思議なことが多く、病臥せられている間に排泄された汚物からもいろいろな神々が生じたなえどと言い伝えられます。
遠州秋葉山は迦具土神の本社として古来名祠であったわけですが、近世に至り僧侶たちが鎮火の神としてこれを秋葉山三尺坊大権現と称し、霊験いちじるしと宣伝しましたので、人間にとって火事ほど恐ろしいものはないのですからその信仰はたちまち世に広まりました。しかし、明治以後、三尺坊を引離し可睡斎に移されましたので本来の姿にかえったわけですが、さて当社が森下の氏神様として創立されたのはいつごろであるかと申しますとこれは分りません。森下には豪族として波多野氏が大沢山の南東に居城をかまえておりましたので、当社は域の鬼門に当たりその鎮護ために祀られたものかと思います。波多野家の尊崇と庇護をうけたことは棟札等によって推察されます。波多野氏は元をただせば藤原氏で、むかで退治で有名な田原藤太秀郷の後裔であり、永平寺の開基として名高い波多野義重もその系譜中に名を連ねております。南北朝のころ行近という人が今の神奈川県の秦野から三河に移って来て森下に住んだので森下氏ともいいました。森下善虎入道などというのがそれです。当社の棟札をみるに最も古いものは寛永2年9月(1625)のもので奉建造立秋葉社殿1字とし神主波多野半左衛門忠房、森下村庄長茂兵衛とあります。忠房は旧城中にあった毘沙門、御子供殿、荒神、稲荷社等の再興につとめたといい、また姫路の池田輝政に仕えた武士であり弓道の達人として知られ貞享元年(1684)90歳の高齢で亡くなったと記録にあります。

      広報みと❻文化財(神社 昭和57年8月15日号より