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御津町商工会

⑳ 『熊野神社』

115.png当社は金野字中畑58に鎮座せられ、御祭神は伊弉冉尊と菅原道真公の御二方です。熊野の神様については平安時代の末に国守であった藤原俊成が、今の蒲郡にあった竹谷と蒲形の2ヵ所を荘園としていたようでありましたが、これを熊野山に寄付したのでこの地は別当の湛快に管理させておりましたがさらに湛快の娘婿行快にゆずられ、のち、この娘が平忠度(薩摩守)の妻となったため自然と平氏の領となり平氏陥落の後は官に没収されていたのを、行快は源頼朝の従兄弟であったよしみで歎願をした結果、また熊野の領に戻ったということが鎌倉幕府の編纂した東鑑という史書にでております。
熊野の勢力は三河に上陸し1は佐脇を中心として四方に進み、1はこの蒲形竹谷方面から東進して五井に熊野神社を建てて勢力を伸ばしさらに国坂を越えて金割に入りここにも熊野社を創建したのでした。そして灰野山を越えて御油に入り御油神社を建てました。これも熊野の神です。
伝説によりますと天平元年(729)行基が熊野権現を祈りそのお告げにより観音様を彫刻し竜岳山中山寺(仲仙寺)をたて、同五年同地に社殿を造って権現様を祭ったとのことです。以後明治まで神仏習合の社寺であり祭事は住僧が勤めていたといわれます。源義朝の臣安達新三郎は保元の乱にあたりこの地に陣屋を設け当社に祈願をしたという。義朝が野間にて横死した後はここに来て帰農したといい、また後年弁慶は国分寺の鐘を持って来たところ国分寺恋しと鐘が鳴いたので叩き割った伝説は有名で、そのため中山邑という村名は鐘破邑となり慶長検地帳にもそのまま登載しています。のちに中仙寺は寛永十八年(1641)山を下って今の字山本五七に移転し、もとの竜岳山はそのまま奥の院と称して権現様をお祭りし、毎月1日10日18日の3日間は登山して皇室万歳、将軍家武運長久国土安全の祈禱を厳修しあわせて氏子の幸福を祈ったとのことですが、明治3年(1870)になって神仏を分離し、もとから天神様をお祭りしてあった現在地へ合祀し同時に熊野神社と改称されたのであります。
 
      広報みと❻文化財(神社 昭和58年2月15日号より