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御津町商工会

⑱ 『稲葉神社』

113.png当社は金野字稲葉54第1に鎮座せられ御祭神は太田神です。この神様は猿田彦命の子孫にあたり宇治土公家(皇大神宮の称冝)の祖になります。
垂仁天皇の時代倭姫命が天照大神のみ霊代である神鏡を奉じて伊勢に来られたときこれをお迎えして五十鈴川のほとりの今の神宮域へご案内したのがこの神でした。
古老の言い伝えでは、ある年(承応3年(1654)という)の10月28日水のしたたるような美しい童子が突然現われ、そこにいた者に言うには「この森林に祠を建てて我を祭るならばお前たちを無病息災となすばかりでなく子孫まで栄えさせてやろう。我に対し祈願をする者には必らずその望みをかなえさせてやる。決して疑うことなかれ我子をは何をかくそう道祖神であるぞよ」というや否や西の方に消えうせましたので早速小祠を建てて祀りましたが霊験あらたかでご利益を願う多くの信者の参拝でにぎわったといわれます。
当社はまた、古来寒神といわれており最古の棟札は貞享4年(1687)のものであり奉造立道祖身御神小社観音寺村惣氏子息(災)大工御油町五兵衛と記されていますが、道祖神というも寒の神というも同じことです。
神代のむかし、伊弉諾尊が亡くなった妻の伊弉冉尊のいる黄泉国へ面会に行かれたとき妻の神は「もう私はこの国の食事をとってしまったから生きて帰ることはできません。しかし、この国のおさに聞いて来ましょう。中へ見に来てはいけませんよ」と言って立去ったまま出て来ないので伊弉諾尊は頭にさした櫛の歯を一本折りそれに火を点じて御殿の中に入って行くと妻の神の体にはうじがたかり体から八柱の雷神が生れていました。驚いて逃げ出すと妻の神はいやな姿をみられってしまい恥をかかされたといって怒り黄泉醜女たちに追撃されました。夫の神はいろいろの物を投げつけて退けながら逃げ最後は杖を投げてこの猛女たちを撃退しましたがこの杖から生じた神が寒の神になったといわれます。ですから邪霊の侵入を防ぐ、また、道行く人を災難から守る神として崇められることになったわけです。妻の神も追撃してきましたが黄泉比良坂(出雲国伊賦夜坂にあたり今の島根県東出雲町揖屋)で訣別したといいます。

 当社の祭日は旧11月28日ですが今は新12月28日に行われます
                 
      広報みと❻文化財(神社 昭和57年12月15日号より