当社は金野字西沢46に鎮座せられ、その位置は俗界を遮断し四方を山に囲まれた桃源郷ともいうべき灰野盆地の北の山腹に円蔵寺と併立して建つ幽寂の地です。灰野の氏神様であります。もと村落が社前に集まっていたのですが便利のよさを求めて1人減り2人減りいつとなく500メートルほど南にあたる御津川沿いの山麓に移動をはじめ遂に昭和34年にはことごとく移転し終り今はこの社と寺のみが旧地にとり残されてしまいました。
御祭神は八王子様でありまして、むかし素盞嗚命は父の神から与えられた統治地が気に入らず、そのことを姉の天照大神に知ってもらおうと高天原にやってきたのですが天照大神は高天原を奪いにきたと誤解されたので、弟神は弁解されて、そうではありません。忌なき証拠として2人して神に誓って子を生みましょうといい天之真名井で誓約され天照大神が素盞嗚命の剣をもらい3段に折り洗い清めて吹き捨てるとその霧の中から多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命が生れこの3女神を素盞嗚命の子とし、また素盞嗚命が天照大神の頭につけていた勾玉を洗い清めてかみ砕き吹き捨てると霧の中から正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命の五男神が生まれこれを天照大神の御子とされました。ところが5男3女神を仏教の方では牛頭天王と沙羯羅竜王の女との間に生れた八王子に附会したのが世にうけて天竺の神様と混同することになりました。明治以後八柱神社と改称され当社の創立は万治元年(1658)と伝えられ「奉新造立八王子一字棟札社内安隠所」という同年の棟札があり禰宣大桑権兵衛願主竹内七兵衛同姓加兵衛大工御津村小野田次兵衛葺師赤坂町大桑庄兵衛遷宮師財賀寺勧学坊遍祐と出ています。当社創立以前は赤坂長沢とともに宮道天神社の氏子であったといいます。御本殿は江戸初期の様式を伝え県文化財保護審議会委員の愛工大教授浅野清氏が調査して行かれました。なお拝殿にある八柱神社の額は大正七年春の高橋是清翁の書で翁は後に総理大臣をつとめ至誠をもって国に尽されたのですが、ニ・ニ六事件によって凶弾に倒れられました。これはその貴重な真筆であります。
広報みと:❻文化財(神社) 昭和57年9月15日号より