西御馬の氏神様として字塩浜1の1に鎮座せられます。ご祭神は誉田別命で即ち応神天皇の御事です。御父は仲哀天皇、御母は神功皇后で、皇后が新羅を征伐して帰られたときお生れになったので武神として崇敬されることとなりました。そのころ中国朝鮮から盛んに文物が輸入され我国の文化は大いに栄えたのですが、八幡様も海外渡来説があるほどでその中心は字佐八幡宮でしたがまだ全国には波及しませんでした。奈良朝の始め隼人族征伐に霊験があったために中央朝廷にその神威が認められ京方面に祭られるようになりました。鎌倉時代には源家の氏神として鶴岡八幡宮が勧請され、武家の間に崇敬されたもののこの地方においては八幡様は余り多く存在しておりません。
西御馬の八幡社は統叢考によれば建久2年(1191)安達藤九朗盛長が鶴岡八幡宮より勧請したとありますが、当時は中村の北(東御馬北部)に鎮座し明徳年中(北朝1390-)東御馬が奥地から海岸に移動したとき西脇(東御馬西部)に移したところ、そこは余り適地でなくさらに万治3年(1660)現地に移ったとのことです。領主松平家忠もその子松平11代直信も当社を崇敬したびたび社参したといわれます。笹踊りについて、もとは西御馬はその執行に主導権をもっていましたがそのことは戸数の多い東御馬には不満で、ほかにも理由があって幕末のころ東西不和となり笹踊りも行われなくなりましたが東御馬としては西御馬に主導権があるのは1に八幡様があるためであるからそのご神体を引馬神社に合祀させればよいという企てが強行されようとしたので当社神宮波多野権太夫は秘かにご神体(仏形)を持出し(宝飯郡誌によれば弘化3年4月「1847」紛失としてある)敬円寺にあずけたので本堂の祭壇に安置したところ参詣の人は近ごろこわい顔の仏様があると言いあったとのことです。時の住職は東西村民を叱りつけご神体を包んできた幟(寛政10年)を立て寺で笹踊りをさせたが、ご神体のことは秘してあるので何で寺で踊るのかと不思議に思う人もあったとのことです。のち50年ぶりにお宮へかえされましたが、こういうことから、昭和49年より寺で笹踊りが復活されました。
広報みと:❻文化財(神社)昭和56年11月15日号より