「神社を中心としたる宝飯郡史」によれば御祭神は国常立命で字青木35に鎮座されます。この神は天地をお開きになった第1代の神とされます。以下7代までを天神7代といい第8代に当る天照大神から鵜草葺不合尊までの5神を地神5代といわれますがその次の方が神武天皇ということになります。当社はもと青木山の中腹にありました。創立は天明元年(1781)といわれ同年の棟札に「奉造栄座王権現棟札一字村中安全守護所、灰野村称冝大桑善右衛門」と出ています。棟札によりますと祭るところは蔵王権現でありこの神は金精大明神といい大和吉野の金峰神社を本社としますが神仏習合のため金峰山寺に蔵王権現を本尊としています。この吉野の山は桜で名高く「むかし誰かかる桜の種うえて吉野を春の山となしけん(良経)」すでに千年も前に僻地である吉野の山は開かれていたのですが人家がたつようになったのは専ら蔵王権現のおかげで、源義経が落ちて来たのも後醍醐天皇が南朝60年の命脈を保たれたのも蔵王権現をまつる金峰山寺の力があったためです。蔵王様を吉野に勧請したのは役の行者小角で、これは今でも多くの村々に行者様として石像として祭られていますが役の行者が吉野山において参籠中に神があらわれ衆生を済度するに足る仏として行者に示されたのが釈迦の像でありました。しかし、行者は満足せずしてこれでは衆生は救い難いと答えると、次に弥勒の形を現わされました。行者はこれにも満足できず「まだまだ」と答えましたので次には恐しい顔かたちをした蔵王権現を示しましたところ行者ははじめてにっこりしてこれこそ自分の望んでいたもので我が国の衆生を教化するに最もふさわしい仏であると喜び、桜の木でその尊像を刻んだと伝えられます。ですから桜は神木として尊ばれ権現様に桜を献ずる習いが生れ、里の人が山から薪をとってきても桜の木がまじっていると必らず山へもどしたとのことです。
さて座王神社拝殿は明治24年に、本殿は同45年に再建されました。祭礼は八柱神社とともにつとまります。境内には300年間争われてきた入会山事件が解決した明治27年に建てた共有山分割記念碑があります。
広報みと:❻文化財(神社) 昭和57年11月15日号より