明治大正のころ、皮膚病腫れ物、性病の治る神様として当社の雷名は尾三遠地方に高く聞こえており、赤根といえば瘡守様のあるところですねといわれるほどでした。正面に建つ鳥居を寄進したのは岡崎の人、釣灯篭は西尾の人、賽銭箱は豊橋の人、百度石は桜井の人、ろうそく立ては寺津の人というわけでこれらはみな皮膚病の治った人が喜びと感謝の心を表わして献納したものばかりです。町内他の神社を見てもこのように諸方の人々から奉納された例は余りありません。当社の一特色を示したものといえましょう、本県医師会が編纂したむかしの医療を調べて書いた「愛知県医事風土記」にも収録され当社の霊験は広く天下に紹介されています。御祭神は少名彦命で国土経営の神として名高くまた医薬の神としても有名です。鎮座地は字仲田121であります。既に昭和48年5月号の広報でくわしく述べられておりますが、神社の起こりはむかしある侍が今川家から戦功の賞として陣笠をもらいましたがその笠を埋めたのが笠塚ということで「神社を中心とした宝飯郡史」によれば赤根の郷土鈴木孫市という人が笠塚の霊夢により諸病をなおす神として延宝元年(1673)当社を創建したとの社伝を載せています。むかしクサを病んでいた大塚村の尼僧が当社に祈願したところ忽ち全快したので評判となり追々信者が殖えました。境内の笹を頂いてきて風呂に入れ浴用とすれば卓効があるというので明治大正のころ、霊験の誉れは最高潮に達し、西三地方、岡崎、渥美郡、遠州方面から続々と信者が参詣するようになり神社側もこれに応じて大浴室を設け大人4人以内30銭という入浴券を発行して整理に当たるほどでした。境内向かって左方には明治19年、2間4尺と5間4尺の参篭殿を建て、ここにおこもりをしながら境内向かって右方にあった浴室で湯治し、筆者幼時の記憶では湯にはお笹が浮び硫黄臭のある鉱泉が用いられていたようです。近くに池田屋、山田屋、仲田屋などという宿屋もありました。治癒したお礼にはカワラケを奉納する習いで何千というカワラケが山をなしているのは見事です。当社は殊に花柳界の女性に人気があり素晴しい美人が時折参拝し、門前の山田正重氏の話では一般の信者も毎日平均2人位訪れ、客はお笹の品切れに不満を示し中には浴場跡の井水を汲んで持帰る人もあるとのことで、霊場の力は今も大衆を引きつけて離さないようです。
広報みと:❻文化財(神社) 昭和57年5月15日号より