下佐脇は熊野権現様を氏神としていて、紀州の熊野とは大変縁が深い。生田・榎本・宇井・鈴木という人々は佐脇の4姓といわれ、紀州から熊野の神様に従って移ってきた人たちである。この人々は本国の熊野をなつかしみ、3熊野(本宮・新宮・那智)になぞらえて、下佐脇に三つの聖地を定めた。本宮は佐脇神社を新宮は字待井にあった藤社をあて、那智は字野先に東光寺をおき、熊野から奉じてきた薬師如来を安置し、これをあてたのである。
この寺は宇井氏がお守りをしていたが、人里離れた淋しいところであり、詣でる人もまれで、いつのまにか本尊様を盗まれてしまったのである。そこで村の人々は、びっくりしてやむを得ず代わりの薬師如来をお迎えして祭っていた。すると、ある日、下地の人が「下佐脇ではこのごろ仏様が紛失したというようなことはないか。」といい「実は私は先日、仏像を買ったけれども不思議な夢をみた。その仏様がいわれるには、われはこれ下佐脇の薬師如来なるが、今な汝の家にある。速やかに元の寺に帰りたい。とのお告げがあった。何と不思議なことではないか」という。村の人は仏様の霊験にびっくりした。勿論薬師如来はなつかしの東光寺に迎えられたのである。
このようにして2つの薬師如来が安置せられることとなったのである。しかし、この寺は無住がつづき荒廃がひどく、遂に明治6年(1873)官の達しによって廃寺となり2つの薬師如来は、正眼寺に移されて、ここで盛んなお祭りをしてもらうようになったのである。薬師講がつくられ、毎年10月8日を縁日とし、その前夜などは村内はいうにおよばず、御馬や梅藪などから信者が参詣し、沢山のお供えものが献せられている。
広報みと:❹郷土の伝説 昭和51年3月15日号より