大木進雄神社をあとに県道21号に戻って西ヘ1.6㎞進むと、千両町の信号交差点がある。ここを北にまがって800mほど行き、犬頭神社の石碑が角にある交差点を西に入ると、右手に犬頭神社が見えてくる。
三河国は古くから養蚕が盛んな地域で良質な絹糸を生産しており、奈良・平安時代には税物として国家へ納めていた。三河国の絹糸は「犬頭糸」ともよばれ、今昔物語(平安時代末期に成立したとみられる説話集)に「参河の国に犬頭の糸を始むる語」という説話があるように、都でもよく知られていた。
この話は、犬頭糸の由来にまつわる説話であるが、犬頭神社はその神社名や養蚕に縁のある保食神を祀っていることなどから、この話の舞台の場と伝えられている(岡崎市宮地町の糟目犬頭神社をその場とする説もある)。鳥居をくぐって境内に入ると手水舎があり、その向こうには御神木である幹の太い桑の古木が枝を広げ立っている。拝殿の東の奥にある建物は、回り舞台を備えた芝居小屋で、昭和3(1928)年の昭和天皇の御大典(即位の記念式典)の時に作られたものである。かつては歌舞伎一座の興行や地元の人々による歌舞伎公演が行われにぎわいをみせた。
犬頭の糸 【むかしばなし】
むかし、千両の村に役人がいました。妻に蚕を飼わせていましたが、どうしたことか蚕がみな死んでしまいました。このことに腹を立てた役人は家を出て行ってしまい、妻は貧しくさびしい日々を送ることとなってしまいました。そんなある日、桑の葉を食べている1匹の蚕をみつけ、これを大事に育てていましたが、飼い犬がこの蚕を食べてしまいました。驚き悲しんでいると、犬の鼻の穴から白い糸が出てきたので、これを引っ張ると糸はどんどん出てきて、4000から5000両ほど枠に巻き取ったところで犬は死んでしまいました。ある日、妻の家の前を通りかかった役人は、家の中に雪のように白く光沢のある糸がたくさんあるのを目にしました。妻からこの話を聞いた役人は、自分の薄情を恥じて妻のもとに留まるようになりました。その後、犬を埋めた跡に植えた桑の木に蚕が鈴なりにまゆを作り、美しい糸が限りなくとれました。この話が都に伝わり、それ以来三河国は犬頭糸を蔵人所へ納め、天皇の衣類を織るのに使われるようになったといいます。
(『とよかわのむかしばなし』より)
千両の銅鐸 【県指定有形文化財】
犬頭神社は宝物として銅鐸を所蔵している。この銅鐸は、明治36(1903)年に千両町から財賀町に通じる通称「才の神」とよばれる峠付近で偶然発見されたものである。大きさは高さが56.9㎝、重さは9.15㎏ある。その形態から外縁付鈕式銅鐸とよばれるもので、やや厚手のつくりである。鈕及び鰭と身の裾に近いところに鋸歯文(のこぎりの歯の形をした文様)を配し、身は斜格子文様の入った帯を縦横に配した袈裟襷文を飾っている。弥生時代中期後半に製作されたと考えられ、三河地方出土銅鐸の中では最古の銅鐸とされている。 (桜ヶ丘ミュージアムで保管・展示)
豊川の歴史散歩:❻本宮山麓を行く 平成25年10月発行より