戸数わずかに70戸ほどの西方村に文明開化の先端を行く鉄道が走り、御油停車場が開業したのは明治21年9月1日でした。西方村に置かれながら「御油」と命名されたのは、知名度の低い西方村に比べて、御油村は郡役所や警察署があり、東海道の宿場町としても知られていたからと伝えられます。
この駅は豊川稲荷や郡役所の表玄関となり、新道の開設をはじめ、稲荷詣での馬車や人力車の会所も設けられて、駅前一帯は活況を呈し、しだいに町並が形成されました。
41年には鉄道も複線となり、御油海水浴場の名声も高まり乗降客の増加に拍車をかけました。
以後、多くの変化を重ねましたが、とりわけ昭和20年8月7日の米軍機の爆弾投下による被害は甚大で、駅周辺の一帯は戦災の憂き目に遭いました。
23年8月1日、駅名を「愛知御津」と所め、28年7月には電化により汽車が姿を消し、30年代に入ると高度経済成長で客足は急速に増えましたが、車社会の進展で、四二年度からは減少を始めました。
62年4月1日、国有鉄道が分割民営化されて、東海旅客鉄道株式会社に移行し、それを機に経営の刷新合理化に一層の努力が払われて、利用客の減少に歯止めがかかりました。近年はほほ横ばい傾向となり、平成10年度の一日平均の乗降客は4,018人を数えました。
【豊川稲荷遥拝所】駅舎の西方50m程の道路脇に朱塗りの鳥居が建ち、その奥に祠があて稲荷様が祀られています。
今から50年程前のこの辺り一帯は、1,100㎡余の広場で、そのほぼ中央の後方に石積みの高台を構え、そこに石造りの狐がはべり、下の平地には大きな石灯籠や木立もある立派な遥拝所でした。
かつては軍役で陸海軍へ入隊・団する際には、ここで町長の激励を受け町民の歓呼の声に送られて故郷を後にしました。帰還した時は勇士として労いの言葉で迎えられ、英霊で凱旋した際はここで懇ろに慰霊され、家路につきました。いずれにしてもこの広場は年配者には、悲喜こもごもの想いが宿る忘れ得ぬ場所でありました。なお、設置されたのは駅ができた翌年ころと言われております。
【花街の興亡】明治44年に発刊された冊子の「御油案内」は、駅前の急速な発展の様子を「近年又芸妓酌婦の類大いに輸入し来り、白昼鼓絃の音さえ聞ゆるに至る」と記しています。その頃の西方には料理兼置屋四軒があり、7人の芸妓がいて、新開地の雰囲気が漂ておりました。
当時の御津は製糸業が興隆して、工場と従業員の数は郡内で一位を占め、至便な交通と相まって、駅前は各種の商談、社交、遊興の恰好の場となり歓楽地として発展しました。
大正13年にはそれまで散在していた芸妓置屋を字小貝津の一箇所に集めて、いわゆる芸者町が誕生しましたが、人々はそこに通じる小路をひそかに「極道街道」と呼びました。
昭和に入り、御津劇場の柿落としでは50人の美妓が舞い、10年頃には70人が妍を競ったと言います。その後、戦局の悪化で衰退を余儀無くされ、戦後復活したものの往時の繁栄は再現されず、時の流れの中に花街の灯が消えたのは、63年の年の暮れでした。
みと歴史散歩:❶駅中心に 平成12年2月発行より