【役場】村の事務をつかさどる所に「役場」という名前がつき、一般に使用される用語となったのは、明治11年に郡区町村編成法が施行されて、それぞれの町村に戸長役場が置かれたことに始まります。
現町域の村では、その時期に多少の差異はありましたが、法施行の翌年2月には全村で設置を終えました。なお、当時戸長役場は町村の便宜により、「戸長の私宅に設けても苦しからず」とされていました。
17年7月にそれまでの戸長役場が廃止されて、8月からは行政区域の拡大が図られ広域化して、宝飯郡には第1組から第32組までの戸長役場が置かれました。そしてさらに、翌18年には名称が改まりました。それらの内容は下表のとおりです。
続いて22年10月、市制町村制が施行されて戸長の名称が町村長に改まりました。また、この時に村の合併も行われて、町域は佐脇村、御馬村、御津村、大塚村(大草、赤根)の4村となり、佐脇村は下佐脇に、御馬村は字西に、御津村は広石(西方説もある)に、大塚村は大塚にそれぞれ役場が置かれました。
さらに、39年7月には、佐脇、御馬、御津の3村が合併して御津村となり、合併後の新御津村では、まず西方の忠勝寺内に仮役場を設け、14年11月には西方字松本八七に役場を新築しました。昭和11年3月にはそこからほど近い字松本六七に、二階建の新庁舎を建設して移転しました。
戦後、社会の様子が一変して、行政の仕っ事は年を追て増大したばかりでなく内容も複雑多様化し、それにつれて職員の大幅な増員を余儀なくされ、庁舎、敷地共に狭隘となって支障が生じ、増築のみでは解消できず、住民の庁舎新設の要望も高まって、51年10月、現在地に鉄筋コンクリート三階建の庁舎を建設し移転しました。
当時は、いわゆる「石油ショック」の影響で総需要の抑制が強く求められた時期に当たり、庁舎の建設もやむなく継続費を設定して対処しました。そして、竣工式当日に「御津町の歌」を制定し発表しました。
なお、この前年には中央公民館が建設され、公共施設が集中的に設置されるさきがけとなったのみでなく、付近一帯を大きく変ぼうさせました。
【日暮池(大池)】およそ5,000㎡のこの溜池は、現在の役場と中央公民館が建っている場所に横たわっていました。
明治26、27の両年にわたって当地方一帯は、大干ばつに見舞われ、田植ができず収穫皆無の惨状でした。これを憂えて地主が相談を重ねた結果、西方村落の最北端に位置し、そのうえ最も高い場所であるここに、溜池の築造が計画されてすぐさま着工し、住民こぞっての協力で28年3月には早くも完成を見ました。
水源は、主に当時の国府町大字為当地内の音羽川に求め、堰堤を設けて、既存水路の改良等で約1,200mの導水路を整えこの池まで送水しました。そのうえ水路の保守とそこから発生する災害防止のため、西方奥山の鈴木家が所有する水路沿い二箇所に士取り場と作業場を確保して、非常の場合に備えました。
昭和43年に豊川用水が通水して西方地区の灌漑用水は確保され、その後も数年間は補完的な役割を果してその使命を終えました。
なお、池の築造を記念してそのほとりに建立された水神碑は今も関係者によって、大切に守られ祀られています。碑の表面の文字は、山本種次の筆になり、裏面には溜池築造の由来が刻まれています。種次は翠湾と号し、田園詩人とも言われ、郡会議員を務め初代御油駅前郵便局長でもありました。
みと歴史散歩:❶駅中心に 平成12年2月発行より