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御津町商工会

⑯ 泙野の塚 (廃寺)

37.jpg【飯盛塚】松林寺の南西200m余りの所に1本の老木が茂る塚があります。これが飯盛長者が祀られている飯盛塚で、泙野の人は昔から「ゆきもり」と呼んでいます。
奈良時代に御津山南麓の沢に住んでいた飯盛長者は、何不自由のない恵まれた暮しでしたが、ある日最愛の1子を失いました。それからは、夜ごと戸外で幼児の泣き声が聞こえました。外に出てみると、それは紛れもなく我が子の泣き声でした。以来夫婦は毎日を泣いて暮らしました。
これが泣野(後に泙野)の地名の起こりとも伝えられます。その折り、諸国行脚をしていた行基菩薩が通りかかり、その悲しみを見るに忍びず、観音像を刻んで長者に与えました。これに感激した長者は、近くに竜光寺を建て、この観音像を本尊として祀り、わが子の菩提を弔いました。
飯盛長者については、泙野の故事にきわめてかかわりが深く、大きな存在であったことは充分推察されますが、その詳細については知ることができないのが残念に思われます。

【紫塚】この塚は、飯盛長者の妻であった紫姫を埋葬した所と伝えられ、泙野の村落の南端字村崎61にあります。
故意にさわると不幸が生ずると恐れられ、今でも関係者によって、手厚く祀られております。所在地の字名村崎は、紫姫の紫から来ており、これがいつの間にか村崎に変化したものと言われます。
なお、近くを流れる御津川(旧称紫川)に架かる橋を紫橋と称します。

【基塔寺跡】紫姫の菩提寺とされる基塔寺は、今は跡形もありませんが検地役人米津清右衛門等による、慶長9年(1604)の泙野村御検地帳には「きとうじ」の地名があり、後年むらさき、てんじんばた、と共に字村崎とされました。寺跡の所在は紫塚の東南に当たる豊川消防署御津出張所に近い、字村崎48付近と言われています。
地元では、現在でもこの辺りを基塔寺と呼ぶならわしが、わずかに残っています。【沓脱塚】この塚は紫橋の西方50m程の蜜柑畑の中にありますが、現状は塚の姿を止めてはいません。
昔は、この辺まで潮が満ちてきたといわれ、御津神社のご祭神大国主命が舟で伊勢の方からおいでになり、上陸されて沓を脱いで休息された場所と伝えます。このとき大塚の漁師がとれたての烏賊を献じたことから、後に御津神社の祭礼を「烏賊祭り」と呼ぶ習わしとなったと言います。
なお、ここは今も御津神社の所有地です。

【川尻婆】泙野には近郷近在によく知られた「川尻婆」の伝説があります。雨の降り出しそうな闇夜に、曲がりくねった里道を飯盛塚に近づくと、そこから赤い提灯ほどの火が出て、こちらに向かって近づいてきて手前でぱっと消え、しばらくすると今度は後ろで灯り、やがて消え去る。そしてこれが大きくも小さくもなり、左右にも飛んだと言います。
これを「泙野の怪火」とも呼び、ゆきもりから出て紫川(御津川)の川筋を下り紫塚、基塔寺を通り、海岸辺りをうろついたといわれます。
また、明治の末期に市販された、いろはかるたに「紫川のゆうれい提灯」という札があったと伝えられています。

        みと歴史散歩❶駅中心に 平成12年2月発行より